返ってきた答案を見て、あたしは凍りついた。英語40点、科学32点、数学……12点。それは既に散々なんてレベルではなかった。かといってあたしが落ち込むかと言えばそうでもなく、ただ単純に作り笑いでこの現実を受け止めていた。もう何が起こってもいいとさえ思っていたのかもしれなかった。
その足で、あたしは幸喜のアパートへ向かった。部屋に着くなり、着替えもせずにカバンからベルトを出して首に捲く。幸喜は部屋にいなかった。まだ会社にいるのかもしれない。あたしは冷蔵庫から良く冷えた牛乳瓶を取り出すと蓋を開けて直接口に運びながらベランダへと向かった。
隣の部屋から、音楽が流れていた。ジャックジョンソンだった。兄貴がよく聴いてるな、とか思いながらあたしは相手をいい趣味だと認識する。
窓が、ガラガラと開かれる音がした。隣のベランダに現れたのは、詰襟の少年。少年は窓の外を見るように世界を見渡していた。
あたしは、黙って煙草に火をつけた。
暫くして、声をかけたのは相手のほうだった。
「学生やったんですね」
「わん」
「高校生っすか?」
「わん」
「煙草吸ってんですね」
「わん」
あたしが「わん」としか答えないから、彼は思わず苦笑を浮かべて頭を掻いた。クックと喉の奥から漏れるような笑い声が聞こえる。
「『わんわん』て、犬ですか」
「わん」
それから、会話が途切れた。あたしは白い煙を吐き出しながら、冷たい風を満喫していた。隣の部屋から聞こえるジャックジョンソンの声が胸に響くように心地よかった。
次に声をかけたのは、あたしだった。
「いくつ?」
「えっ……と、15歳です」
あたしが急に声をかけたから、相手は戸惑っているようだった。その様子が酷く可愛くて、あたしも思わず笑みがこぼれた。
「15かぁ。中学生か。」
確認するようにポツリと呟いた。どうりで可愛いと思った。あたしが無くしてしまった時間を、この子は生きているのだから。
「……名前は?」
「光です」
「ヒカル、かぁ」
綺麗だね。キラキラキラ、キラキラキラキララ。
輝く星のように、月のように。――太陽のように。いつか君は、誰かを照らす明かりになるんだろう。
そんな妄想に耽っていたら、今度は向こうが口を開いた。
「なんて名前なんですか?」
あたしは思わず苦笑して相手をちらりと一瞥する。
「コウ、やで」
「そうっすか……」
三度目の、沈黙。光は何かうずうずしているみたいだった。あたしは眉根を下げて相手の表情を覗き込んだ。
「あの……」
「うん?」
「いつも、ここで何してるんですか?」
搾り出すような、声。良く見れば、光は耳まで顔を真っ赤にしている。その様子が視界に入って、あたしは思わず残虐な感情に駆り立てられた。それがなんなのか、その時のあたしには解らなかったのだけれど。
「……ペット」
「え?」
「あたし、此処の主人に飼われゆうがってね」
「それって……どういう」
相手が戸惑っているのが手に取るように解った。あたしは視線を逸らして、煙草を口に食む。肌を裂くほど冷たい風が、午後の農村に吹き付けられている。あたしは指先で首輪の鎖を弄んだ。
「セックス玩具。あたし、ここじゃあ人間じゃないきよ」
ニィと口元を上げて相手を見ると、俯いて少し震えていた。――傷ついている。そんな様子でさえ、あたしには綺麗なものに見えた。
酷い女だね。汚いんだよ。こんなにも、屈折してしまっている。
少年が耐え切れずに窓を閉める音を、あたしはうっすら微笑みながら聞いていた。
……胸の奥が、痛んでしまっているのにも気付かないで。
それからしばらく、彼はあたしの前に現れなかった。ベランダから覗いていても、姿を見ることも出来なかった。そうして、もうすぐ冬休みが来ようとしていた。あたしは昼間両親がいないことをいいことに、幸喜の家に通い詰めていた。それは、酷く屈折した時間だったように思う。
貞操を大事に守るとか、身体を労るとか、そういう考えはもう古いんだって思ってた。大事なのは、心を侵されないかどうかなんだって。いくら身体を繋げたところで、所詮は皮一枚、ゴム一枚で隔てられて、あたしとそいつが本当に繋がって一つになることなんてない。
薄い網膜の内側はどろどろに溶けた蛹のようだ。あたしは早く蝶になることを望んで、いくつもいくつも化学反応を望む。細胞の一つ一つまで沸騰したその熱であたしを溶かして。そしてもう一度、組織を再構築したい。
そしたらあたしは、本当の意味で人間になれるんだって信じてたんだ。
窓の外は、凍てつくような寒さだった。あたしはまた煙草を吸いながら外を見ていた。
このベランダから飛び降りたなら、どうなるんだろう。あたしの四肢はバラバラになって、肉と皮だけでつなげられた惨めな肉塊となって人々の視線を集めるのだろう。そしたらあたしの心は蝶々となって、その様子を空の上から観察する。
そんな自虐的な妄想に浸っていたときだった。隣の部屋の窓がカラカラと開く音がした。あたしは反射的にそちらに視線を向ける。ほぼ一ヶ月ぶりに見る、少年の横顔だった。
白い首筋に、詰襟の黒と髪の毛の黒が映えていた。光は、あたしを見もしないでずいと片手を差し出した。
「俺にも、ください。」
一瞬何のことかと戸惑ったが、それが自分の咥えている煙草だということに気付き一本相手に差し出した。光はそれを口に咥えて、あたしはライターも差し出す。慣れない手つきでそれに火をつけた光は――次の瞬間、突然大きく咳き込み始めた。目尻に涙を浮かべて、俯いて。顔を真っ赤にした彼は、やっぱり可愛かった。そんな光をどこかほんわかとしたあったかい気持ちになって見ていたあたしは、笑いながら彼に問いかけた。
「煙草吸うの、初めて?」
彼は噎せ返りながら、何度も頷く。
「いいねぇ、若い!若いって素晴らしい」
あたしはわけの解らないことを口走って、大きく笑った。何故だか知らないけど、すごくテンションが上がってて楽しかった。
光は涙で滲んだ目であたしを見る。
「聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんでペットなんてやってんですか」
あたしは一瞬凍りつく。まさかその話題を出されるとは思っていなかったから。それから少しの間考えて、結局首をかしげた。
「なんでやろうね」
「答えになってない」
「解らんのんやもん」
あたしは、外の風景に視線を流した。
「……逃げたい。の、かもしれんなぁ」
「逃げるって、何から?」
あたしは答えなかった。ただ、首を傾げるそぶりだけ見せて話を流してしまおうと思っていた。
答えなんて、解りきっていた。ただ、それを口にすると一生逃げられなくなりそうで怖かったんだ。
「……わかりました」
何を解ったって言うのだろう?と思ったけど、あたしはもう口にしなかった。ただ光は、そのまま何も言わずにピタンと窓を閉めてしまった。あたしはため息をついて、また興味を失ったように外の世界へと意識を飛ばした。
その時だった。玄関の方から低くくぐもった様な声が聞こえたのは。
「逃げるって、何処へ?」
あたしは慌てて振り返る。全身から血の気が引いたような感覚がして、背筋に鳥肌が立った。
幸喜だった。部屋の柱に体を預けて荷物を床に放り投げた。残酷な光を瞳の奥にたたえて、あたしを見ている。
「待って……違うっ!」
あたしは思わず否定しようとして、緩く頭を振った。どうしよう。逃げ場がない……!
ネクタイを外しながら、幸喜が近づいてくる。あたしは反射的にその脇をすり抜けようと走り出す。――結局、二の腕を掴まれて逃げることは出来なかったけれども。
「何処行くつもり?」
「嫌や、離してっ!」
ギリッと幸喜が掴む手に力を入れた。あたしは苦痛に表情を歪ませて、顔を逸らす。その次の瞬間、壁に押し付けられていた。
「残念やったな。逃がさんで」
両手首を掴まれてひねり上げられる。骨がきしむ音がして、あたしは悲鳴を上げた。幸喜はあたしの下着を下ろすと、そのままの体制で己の欲望をあてがう。
「やだ……やめろ!せめて、慣らせよ!」
「ぎゃんぎゃんうるさい犬やなぁ。黙れよ」
幸喜は手首を掴んでいた手を離すと、それであたしの口を塞いだ。そして、空いた手であたしの腰を引き寄せると、熱くたぎった欲望であたしの熟れきっていないそこを一気に貫く。
「んんうっ!」
そこは、熱く張り裂けそうになっていた。あたしは目を見開いて、背中をぐっと反らせた。幸喜は即座に律動を開始して、あたしの中を往復していく。
「可哀想に。羽をちぎられて飛ぶことも出来んか!あぁ?」
あたしは頭を下げて必死に与えられる衝撃が収まればいいと願っていた。息も出来なくて、ただ何度も荒く悲鳴を上げるだけで。
「知ってんぞ」
幸喜が、耳元で囁いた。
「お前の左手も、右手も、傷だらけやんな。何回切り刻んだがなや。えぇ?そんなに死にたいか。なんなら、殺してやろうか?」
「うぅっ!」
固く、熱を持った男の肉欲が、一気に奥まで突き刺される。まるで、あたしの胎内を突き破ろうといわんばかりに。幸喜はそのまま律動を一旦止めて、一気にまくし立てた。
「なぁ?淫乱なお嬢ちゃんよ。お前は結局こうやって男の玩具にされることしかできんがやろうが。それで何人傷つけた、え?人間なんか嫌い、だけどセックスは好き。矛盾しちゃあせんかえ。なぁ、お前は結局そうやって自分に惚れた馬鹿なガキを追い詰めて、自殺させたんやろうが!」
涙がこぼれた。一気に胸の奥に広がる虚無が、あたしの身体の感覚まで麻痺させた。
幸喜が言ったことは、事実だった。逃げられない現実だった。全て消えてしまえばいいと思っていた。なのに、あたしの身体は、心は拭いきれない後悔と罪悪と、絶望で埋め尽くされて……。
ほんの少しでもいい。ほんの小さなものでもいい。
光が、欲しかったんだ。
行為が終わったあたしは壁にすがりつくようにして床に座り込んでいた。涙の筋が少し乾いて、引きつるような感覚を頬に残していた。腰から下は、幸喜の出したものによって点々と白く汚されていた。
もう、声もでなかった。幸喜はズボンのベルトを締めてながらあたしを冷たい目で見ろす。
「ええか。お前は犬や。ダッチワイフや。それ以外のなにものでもない。……逃げようなんて、余計なこと考えんなよ」
そういうと幸喜は、煙草を咥えながら部屋を出て行った。あたしは酷い脱力感に捕らわれていて、動けそうになかった。
玄関のドアが開く音がした。次いで、静かに響く足音。あたしは気だるげに顔を上げて、口を開いた。
「何よ……あたしもう動け……」
そう言い掛けて、あたしは目を見開いた。詰襟の学生服の黒が、眩しく光って見えた。
光だった。
光は、顔を真っ赤にして俯いたまま、搾り出すように小さく一言だけ呟いた。
「服……着てください……」