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 何かを得ることは、対等な対価を支払うこと。それはまるで発光ダイオードみたいな安っぽい約束だ。あたしは、太陽を見失って、夜の闇で彷徨う野良犬。それで構わないと思う。自由で、強暴で、そして飢えている。
 春樹の腕の中で、幸喜を思い出していた。いつだってあたしは、男に抱かれながら他の男を思う。それは今でも変わらない、何度となく繰り返されてきた秘密の思考。
「何考えてんの?」
 幸喜はあたしの耳元で囁くように呟いた。この前と同じ台詞だけど、あたしの心は過敏に反応を示した。たまにこいつは酷く鋭い。あたしは口元に意地の悪い笑みを浮かべて相手に視線を合わせた。
「男のコト。」
「はぁ!?」
 あっという間に表情を歪めて、春樹は顔をずいと近づけてきた。顔に息がかかる気がして、あたしはすっと身を引く。
「どういう意味よ」
「どういうって、そのまんまよ。煙草臭いから離れろや」
「説明しろって」
 うっとおしいなと内心思ったあたしは、するりと春樹の腕から抜け出した。下着を身に着けながら、ため息混じりに適当に返事を返す。
「セックスの上手い男がおった。そんだけの話」
「また、誰かと寝たが?」
 ベッドから飛び起きた春樹は、あたしの腕を強く掴んで引き寄せた。痕が残るほど、強く。あたしはその力に、紛れもなく雄を感じる。
「痛いって」
 目を伏せてそう呟けば、春樹は慌てて手を離した。視線が泳いでいた。こういう時の男ってわかりやすくて扱いやすいよな、なんて赤くなってしまった腕を押さえながらそんなことを考える。
「……好きなが?」
 その問いに、あたしはあからさまに嫌な顔をした。好きだとか、恋だとか愛だとか。その時のあたしはもう考えたくなかった。その感情のために失ってしまったものがありすぎたから。
 恋をする資格なんて、あたしにあると思う?
 あたしは自嘲気味に笑って相手の胸を突き放した。
「んなわきゃないやろ。今更……」
 そんな感情は、とっくの昔に消してしまったはずなのだから。だったら何故。何故。何故。何故、こんなにも過去に縛られている?そんな考えを振り払うかのように、あたしは頭を横に振った。そして自分自身に言い聞かせるように相手の目を見てはっきりと言い切った。
「好きになるわけがない」
 それは、酷く自信を持たせる一言だった。これから先、誰とも恋をしない。したくない。
 終わり悪ければ全て悪い。いい思い出なんか、一つだって残ってない。
 春樹は、悲しい顔であたしを見た。



 南国だなんて言われてたって、冬になればいくら高知でも寒い。雪も降るし、氷だって張る。空気は透明に鋭くなり、鋭利な刃物のように肌を傷つけていく。唇から漏れる吐息は白く濁り、マフラーに埋まる頬は赤く染まる。
 再会は、思いの他早く訪れた。あたしはその飄々とした表情を唖然とした顔で見つめた。
「よぅ、コウちゃん」
 幸喜だった。
「何しに来たがよ……」
 あたしは項垂れて頭を抱える。幸喜はへらへらと笑みを浮かべて、そんなあたしの頭にぽんぽんと手を置いた。
「コウちゃんに会いたかったがよ。ずっと探しよったがで?」
「はぁ?」
 あんたとあたしの関係は、終わったはず。そう告げようとして、顔を上げると、幸喜はあたしの耳元で熱っぽく囁いた。
「お前さぁ、俺のペットにならん?」
 頭が真っ白になった。解るのは、この男が極度の変態だってことだけ。
 初めからあんな提案を言い出さなければ良かったのかもしれない。そうすればあたしは、この男に捕らわれることもなく自由でいられたのかもしれなかった。
 だけど。一度快楽を知った身体は何処までも堕ちて行くだけ。たった一言なのに、不覚にもあたしは膝の力が萎えそうになってしまった。
 繰り返される自虐と苦しみから逃れるために必要なのは、全て消え去ってしまうような快楽。
 それが解っていたからこそ、あたしは走り続けてきたんだ。それが解っていたからこそ、あたしは何度も繰り返してきたのに。
 男の目が、奥底で残虐な光を放つのをあたしは見た。あの日、春樹に握り締められた腕が疼く。それは、あたしを突き落とす圧倒的に強い……そう、強い力だったんだ。
「俺は、お前を知ってる」
 胸の奥が、ずくんと音を立てた。頭から背筋、つま先まで一気に血の気が引いていく。
「酷い女やなぁ。自分を守るために、犠牲者まで出して」
 どうして?どこから漏れたの。
涙が溢れた。何もかもが、この男の前では無意味だったのかもしれない。
 もう、おしまいだ。何もかも。
「お前が必要なモンは、知ってる。それは、俺しかくれてやれんやろ」
 耳元で次々と吐き出される言葉は、甘い猛毒だ。指先が痺れて震えてくる。地獄の底から囁きかけられる悪魔の呪文。畏怖さえ、感じた。
「……どうする?」
 男の指先が、あたしの頬や首筋をなぞるように滑る。
 あたしはまた一つ、道を踏み外した瞬間を見た。



 それからあたしは、幸喜の部屋に連れて行かれた。その部屋では、いくつかの『約束事』があった。

 常に、首輪を装着すること。(鎖は常に幸喜が握っている)
 部屋の中では『わん』と鳴くこと。他の言葉は喋ってはならない。
 主人(幸喜)の言うことは、全て従うこと。

 あたしが順守しなければならないことは、主にこの3つだった。あたしは、幸喜が用意したベビードールを着て、首輪で繋がれた。学校帰り、休みの日、家族が寝静まった夜。あたしの時間という時間は、全て幸喜のために注がれた。――違う。それは結果全て、『自分の為』だったんだ。
 あたしは、まだ解っていなかったんだ。強いということが、どういうことなのか。そしてその意味も。

 幸喜の指先は、恐ろしいほどにあたしを昇らせる。幸喜の雄はいつも猛っていて、まるでそこだけが別の生き物のようにうねってその度あたしは獣のような鳴き声をあげる。
 ベッドに縛り付けられて、倒錯した情事に陶酔する。酔ったようにあたしは顔を赤らめて、狂ったように腰と頭を振る。ただの雌になるということが、これほど楽なことか。幸喜の雄に背後から犯されながら、あたしは叫び声を上げ続けていた。ローションで湿った長い指先があたしの幼い乳房を弄る。両手と両足はベッドに縛り付けられていて動くことすら出来なかった。
 セックスは好きだ。それをしている間は、何もかもを忘れることが出来るから。絶頂に達するその瞬間、あたしは待ち望む『死』を擬似的に体感することすら出来るのだ。だけど決まって、その後訪れるのは息苦しくなるほど押し寄せる『現実の波』。あたしは泣きたくなる。だけどそれは許されない。涙を流すのは、人間の証拠だ。
 誤魔化すように、あたしはセックスの後牛乳を飲む。幸喜はいつも冷蔵庫に瓶入りの牛乳を入れていた。その牛乳は、今まで飲んだどんなそれよりも優しい味がした。
 幸喜は、『あたし』を知ってから、態度を豹変させた――いや、元々そういう人間なのかもしれない。とにかく、セックスのたびに耳元で囁かれる過去と罵詈雑言は、哀しいほどにあたしを現実に留まらせ、そして絶頂に導く。
 あたしは、淫売なんだと刷り込まれる。あたしもそれを否定しなかったし、むしろそうあればいいと思っていた。

 あの日、までは。



 その日は休日出勤で、幸喜は部屋にいなかった。あたしは下着姿のままベランダで牛乳を飲んでいた。首輪の鎖を指先でチャラチャラと弄ぶ感覚が好きだった。
 のんびりとした、田舎の風景だった。稲を刈り取られた田が、こげ茶色の大地をむき出しにして来るべき春を待ちわびている。その様子はまるで自分の割れ目のように醜い。そんな事を考えながら、アパートの下を行き交う人々の様子に視線を流した。
 その時、自転車に乗った詰襟の男子学生の姿が視界に入った。キラキラと輝く金色のボタンが、やけにまぶしかったのを憶えている。あたしの視線に気付いたのか、少年は自転車を止めてあたしを見上げた。
「(綺麗だな)」
 直感的にそう思った。それはまだ、穢れを知らないあどけない瞳で。あたしはにっこり微笑んで「わん」と鳴いた。
 あたしの格好を見て、彼は顔を真っ赤に染め上げた。酷く新鮮で自然な反応だった。少年は慌てて自転車を走らせた。彼が入っていったのは、このアパートの駐輪場だった。暫くして、階段を駆け上がる音と、ドアを閉める音が響いた。隣の部屋だった。
 あぁ、この薄い壁の向こうは別世界なんだね。
 あたしはベランダから離れると、その壁に寄り添うようにして座り込んだ。もう、あたしが戻ることの出来ない綺麗な世界がその壁の向こうに広がっている気がした。
 頬を伝ったのは、何故か懐かしい涙だった。
 それからあたしは、ベランダからその少年を見ることが日課になった。少年は脱色していないさらさらの黒髪を靡かせて、自転車を漕ぐ。その姿は確かに、あたしが失ってしまった姿だった。



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