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「君の名前、充クンっていうんだよね」
 その週末。駅前の喫茶店で甘いホットショコラを口に運びながら、彼女は「悠子に聞いたよ」と笑いかけた。充はコーヒーを口に運ぶ。返事はしない。プライドが許さなかったから。憮然とした表情のままの少年を見て、彼女は首をかしげた。
「何で怒ってるの?」
「別に、怒ってないです」
 ただ自分は、書かれてあった連絡先に電話をしただけだ。文句を言ってやりたかった、というのもある。突然部屋に押し入って、あんなことをするなんて、まるでレイプじゃないか。
 彼女は、カップを置いた。
「ずるい子ね」
 突然響いた射る様な声音に、充は顔を上げた。彼女は此方をじっと見ながら、冷淡に目を細める。
「何故言ってあげないといけないの?決めてもらいたいんでしょう、私に」
「なんのことですか」
「君が、私に電話してきたんでしょう?」
「それは貴女が僕に電話して来いって……」
「言ってないわ」
 きっぱりと言い切られて、口ごもった。確かに連絡先は渡されたものの、連絡して来なさいとは一言も言われていない。会おう、という約束さえも。
 電話をかけようとしたとき、充は震えていた。それは彼女に対する怒りだと最初は思っていた。けれどもそれは、期待と不安だったというほうが正解だったのかもしれない。
 俯いて、ジーンズをきつく握り締めた。まただ。震えている。そして、なんてことだろう。それ以上に、厳しく冷酷な言葉を浴びせられるたび、下肢が熱く疼き始めていた。あの日のように。
「卑怯な子」
 彼女は、見下すような視線を遠慮することなく投げつける。
「君が私に会いたいから、電話してきたんじゃないの?その上で、私にどうして貰いたいかくらいは、分かってるんでしょう。そのくせ、その言葉を相手に言わせたいだなんて、お話にならないわよ」
 溜息をついて、彼女は髪をかきあげた。柔らかな髪が指の隙間からさらりと毀れる。夜の雨のように。その仕草は、あまりにも女だった。初めて会ったときの印象が崩れていく。
「僕……」
なんとか搾り出した声は震えていた。何も間違ってはいない。痛いほどに正論だ。悔しくて悔しくて、涙が出そうになる。双眸を強く閉ざして、溢れそうになるものを堪えた。
「貴女に、触りたいです」
 何処か強引に言わされたような気がしてならない。だけれども、彼女に電話をかけた時の数ある理由の中で敢えてこの言葉を選んだのは充自身の意思だ。途切れがちにそう呟けば、彼女はその唇の端を持ち上げた。
「それが、君の意思なのね」

「美希さん……」
 大きく喘いで、彼女の名を呼んだ。本名かどうかは知らない。ただ、そう呼ぶように言われただけ。
「これ、外してください」
 両手を動かそうともがくたび、ジャラジャラと金属音が室内に響く。美希は唇の端を上げて嗤う。
「駄目よ。だってそうしないと、言うこと聞かないんだもの」
 その言葉に、充は悔しげに眉根を寄せた。両手を挙げたままベッドに固定されている充の太股の上に跨っている美希は、柔らかな髪を揺らしながら首を傾げる。充はそんな彼女を恨めしげに見上げて唇を尖らせた。
「貴女だって、僕に好きにしてる」
「私は君のニーズに答えてるだけよ」
 こうされたいでしょう、と美希は充の喉下から胸板へと指先を滑らせた。その度に鳥肌が立つほど淡く痺れるような感覚が奔った。
「立っているじゃない」
 と、彼女はその胸の突起に触れた。
「気持ちいいの?それとも、何時も立っているの?」
 いやらしい子、と嗤い声が聞こえる。否定する余裕もなく、充は吐息を荒げた。未だ鮮やかな午後の日差しが、真っ赤なカーテンの隙間から流れ込んでいる。深い緑色に塗られた壁が、それを受けてゆらゆらと揺れている。まるで何処かで見たフランス映画のワンシーンのように。
 小さな乳頭が爪先で弾かれる。柔らかで細い指先で捏ねられる。乳輪をなぞられる。普段は別段触れられることのない箇所を攻め立てられれば、思いもよらない快楽がいっせいに押し寄せてくる。
「男の子なのに、こんなところも感じるんだね。可愛い」
 満足げに呟き、美希はその胸の突起を唇に挟んだ。軽く当たった歯の間から、赤い舌が現れ、その先端を掠めていく。左側の乳頭は指先での刺激を続けた。別段、普段は女性のそれを触ることしか思いもよらないその箇所は、先端からじりじりと痛みを伴って不可思議な刺激を全身へと広げていく。
「あ、あぁ……あっ」
 出したくもない声が漏れ、自然と吐息は荒くなる。充は自分の中心に熱と血液が集まっていくのを感じながら、動けない我が身に苦悩した。美しい彼女に、美しいその手で、与えられているものは何物にも変えがたい甘美だ。それが苦痛でも、恥辱でも、快楽でも。
 まだ幼いとはいえ、微かに芽生え始めていた男としてのプライド。そういったものが、一瞬にして砕けて散らばっていく。鮮やかな、真夏の夜空に散る花火のように。それでも、それすら拒めない己に気づいている。だからこそ、こんなにも切ないのかもしれない。
 一瞬しか訪れない、その先にある高みへと導く彼女の手は、指は、唇は、こんなにも温かで優しいのに、まるで首を絞められているような感覚を充は感じていたのだった。

「ねぇ、あたしと付き合って」
 本田の机に腰を下ろしたまま、二ノ宮明菜は少しはにかみながら小さな声でそう呟いた。終業式が終わった後の、夕暮れ時だった。校舎に差し込む生暖かい光の中で、充はぼんやりと少女の顔を見た。耳が少し赤らんでいるのは、多分夕日のせいだけじゃない。ポニーテールに束ねられた少女の黒髪は、手入れが行き届いていて美しかった。
「武内君が来るっていうから、キャンプ行くの決めたんだよ」
 だからあんなに必死になって本田が誘ってきたのか。その理由が分かったような気がして、充は相手にわからないようにため息を吐いた。
「本当はね、キャンプの夜に告った方がよかったのかもしれないけど、待っいてられなくて」
「何で、俺なの」
 素直な疑問をぶつけてみる。明菜は快活な美少女で、クラスのムードメーカー的な役割をしている。そんな彼女から見れば、充は至って地味だ。特に強い発言をするわけでもなく、大騒ぎして教師に目をつけられるわけでもない。可も無く不可も無く、といったところかもしれない。その質問を聞いた明菜は、可愛らしく小首を傾げて微笑みかけた。
「武田君ってさ、センスいいじゃん。この前、貸してくれたCDもそうだけど、持ってるものとか大人っぽいっていうか、いいもの選んでるなって感じするし」
「(そんなところ、見なくていいのに)」
 胸の内側でそんな事を考えながら、充は相手から視線を外した。午後の光に包まれているグラウンドを眺めると、何処かで美希が見ているような気分になった。自分のそういった趣味や、仕草を、彼女も見ていればいい。
「ねぇ、付き合ってよ」
 念を押すように明菜は呟いた。声はどこか震えていて、頼りない。その声にもう一度、困ったように眉根を寄せる明菜を見る。スカートの裾を握り締める指先の間接が白く染まっていた。
 夕焼けは、静寂を連れて来る。柔らかで生温い水が、体の内側で、外側で、ゆっくりと渦を巻いている。巻いて。
 充は立ち上がった。少女の薄く色づいた唇に、自分のそれが重なるのは一瞬だった。
 女の子って、こんなにも弾けてしまいそうに瑞々しいものだったのかな。こんなにも張り詰めていたっけ。そんなことを、くどいほどの甘さを孕んだ空気の中で考えた。

「もう、会えないな」
 家に帰り着いて、制服のままベッドに横になる。そうして頭の中で今日の出来事を整理して、充はそう結論付けた。無論、美希のことである。元々彼女とは何の約束も無い。あるのは、お互いが求め合うもののための関係だ。それを断ち切ったとして何の支障もない。『健全な魂は、健全な肉体にのみ宿る』という言葉を思い出す。今の関係性が健全だとは言い難かった。
「充」
 ドアの向こうから姉の声がする。振り返ってみるが、彼女がドアを開ける気配は無い。
「お風呂沸いてるから、入っちゃいなさい」
「ああ」
 短く返事をすると、充はのそりと立ち上がった。ドアを開けると、悠子が自分の部屋に入っていく姿が一瞬だけ見えた。そのまま階段を下りる。リビングでは父と母が、一週間後に控えた披露宴の話をしていた。そういえば、姉は籍を入れたというのに相手の男と一緒に住むという話をしない。多少の荷物は纏めているものの、その手もなかなか進まない。
「(マリッジブルーってやつかな)」
 悠子は気の強そうな容姿に反して、かなりナイーブだ。そしてそれを押し隠そうとして落ち着きのある態度をとる。そのせいもあるのだろう、などと思いながら、充は湯船に使った。入浴剤を入れたのだろうか。湯は白く濁っていて、ほのかに薔薇の香りがした。
 薔薇といえば、いつも思い出すのは美希だった。長くて白い首筋に揺れる黒髪も、その隙間から覗くピアスも。何よりも強いのは、彼女が家に来ていた時に履いていた真っ赤なエナメルのパンプスだ。彼女の甘い匂いは強い芳香を持つ薔薇のそれと同じだ。大きく深呼吸をする。まるで、粒子となった美希に灰の中が満たされていくような感じがした。すると何故か、急に体感温度が下がったように感じて、充は思わず身震いをした。そうして体を一瞬よじったとき、異変に気づいたのだ。
「あ……」
 何てことだろう。怒張している。こんなところで、こんな場所で、一瞬だけ彼女を思い返しただけだというのに。慌てて己のそれを握り締める。迷っている暇は無い。いつまでも浸っている場合じゃない。時折緩急はつけるものの、それをこすり上げる手は次第に早まっていく。余韻になど、浸ってはいけない。
長い、長い、一瞬の出来事。それは、酷く乱暴な自慰だった。湯の中で果てたまま、少年は誰にも気づかれないように涙を流したのだった。
「充」
 響いた若い女の声に、充は顔を上げた。ドアの向こうに人の気配があった。姉が立っている。
「ちょっと、いい?」
「なんだよ」
 湯で顔をばしゃばしゃと流しながら、充は乱暴に返す。タイミングが悪いな、等と頭の片隅で思う。
「あんた、美希と会ってんの?」
 突如降ってきた名前に、充の心臓が音を立てた。動揺しているのを隠し切れずに、思わず黙り込む。
「会ってるんだね」
 返事をしないことは、時として肯定ととられる。確信めいたその声は、何故か強く、脆ささえ含んでいた。その声が意図するところが分からないまま、充は浴槽の中から姉の様子を伺う。不透明なガラス戸の向こう側に立っている悠子の表情がどういうものなのか、充には判別できなかった。
「もう、会わないで」
 押し殺したような声で、悠子はハッキリと呟いた。浴槽の中で、湯がその声に連動するように揺れた。
「姉ちゃんには関係ないよ」
「うるさい!」
 ガラス戸の向こう側で響いた姉の声に、充は目を丸くした。思わず浴槽から身を乗り出して見えるはずの無い姉の様子を探ったが、こちらに背中を向けているのか、俯いているようにしか見えなかった。温厚な姉のその様子に、充はただただ呆然と相手を見やることしかできない。
「姉ちゃん、どうし……」
「あんたは知らなくてもいいの。兎に角、もう美希には会わないで」
 履き捨てるように言い残して、それから姉の気配はガラス戸の向こう側から消えた。充は再び湯船に身を沈めた。白濁の湯の中へ潜り、ぶくぶくと体内の空気を吐き出す。気泡。こうして液体のものを媒体としたとき、酸素は確かにその姿を現す。
 人の気持ちだって同じだ。他人という媒体を通したときのみ、その姿が明から形を伴って現れる。両手で湯を掬ってみる鮮やかな白だ。そしてそれを包む血液の通う指先は、ほんのりと赤く染まっている。生きている。生きている。この中に金魚がいたのなら、さぞかし美しい光景なのだろう、と思う。優美で軽やかな尾ひれを揺らしながら、其処が見えないほどに暗い円らな瞳で此方を見上げるのだろう。
 人間には、大きく分けて二通りあるのかもしれない。安心できる場所に留まって、そこから手の届く範囲のもの掴む者。そして、居場所すら放棄して、心の欲するがままに流れる者。充の小さな世界に当てはめてみれば、もう片方は美希だ。後者は稀有な存在であり、羨望の的であり、憎まれる存在だ。ふと、姉を想った。姉はどちらだろう。恐らくはどちらでもない。ただ、充には計りしえないほどの楔が足枷となり彼女の両足に食い込んでいる。食い込んで、食い込んで、血を流して叫んでいる。そんな事を考えながら、充は湯船を上がった。そして栓を抜いた排水溝に、自らの性の混ざった柔らかな乳白色が吸い込んでいくのを眺めた。

「自慰行為はこの世で最も無意味なものよ」
 ある日、行為が終わった直後の未だ汗でしっとりと湿っている充の胸板を指先弄びながら、美希はそう呟いた。
「本来ならば命を宿す種。さっきの行為で何億という人間が死んだのと同じだわ」
 充の腹部を先ほど美希によって絶頂を迎えられたその痕跡が点々と汚している。充はそれに触れてみた。とろりとした卵白にも似たさわり心地の粘液は、とても柔らかだった。
「いい?充君。美しいものは時として芸術と呼ばれるわ。そして芸術とは無意味なものなのよ」
 充は精液で濡れた指先を見る。艶やかに滑るその体液は、まるで己のものとは思えなかった。
「僕は、美しいですか」
「美しいわ、とても」
 そう呟いて、美希は充の頭をその両手で抱いた。その柔らかな乳房に顔をうずめた充は、心の置くが静まっていくのを感じる。女の乳房は子に乳を与えるためにある。けれども、今の美希には不要なもので、それは無意味だ。
「貴女は、綺麗だ。世界で一番」
 この時充は、初めて彼女を美しいと思っている自分に気づいたのだった。そしてそんな少年を、美希はただ笑って見ていた。
「知っているわ」

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