黒いドレスと赤いパンプス


 その瞬間、充は歓喜に沸く大勢の参列者の中で彼女を見つけた。
黒いシルクのワンピースの裾で、レースが揺れていた。季節感を全く無視したようなその容姿は、その他大勢の中でも際立っていた。顎の下で断ち切られたボブ。伏せられた睫は、陰さえも感じられるほど長く濃い。細く白い手の甲。すらりと伸びた指先。華奢で肉体の起伏といえば、体の間接くらいなのだろうか。
その凛とした立ち姿を見た瞬間、充は感じる。まるで大人になってしまったお人形のようだ、と。そして動けなくなる。全身の肌が冷えてしまって、それなのに掌にはじわりと汗をかいている。
彼女が顔を上げた。固まったままの充の視線と、彼女のそれがかち合う。その時彼は、自分が捕らえられたことを知ったのだった。

 窓際の席から外を眺めると、青々と茂る木の葉が正午の日差しを浴びて風に揺れていた。遠くで水しぶきの音が聞こえる。近くの幼稚園で、プールでもやっているのかもしれない。
「充さぁ」
 前の席に座っていた本田が、上半身を反転させて振り返る。開閉を繰り返す口元から、白い歯が見えた。
「夏休み、なんか予定ある?」
「ないよ」
 充は机に肘をついたままゆるゆると首を振った。蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏休みを一週間後に控えた午後は、ただ静かな喧騒を孕んで沸き立とうとしている。それは人の心なのか。本田は高揚した様子で表情を緩めた。
「キャンプいかねぇ?キャンプ」
 嬉しそうに二度繰り返した本田の肌を、充はゆっくり眺めた。野球部の彼は、全身を褐色に近いほど綺麗に日焼けしていた。続いて自分の腕を見る。白いカッターシャツから伸びたそれは、白いままだ。あまり表に出ないのもあるが、それ以前に体質的に日焼けしにくいのだろう。そんな事を思いながら、充は首をかしげた。
「誰といくの」
「二ノ宮たち」
 告げられた名の少女がいる方へ、充は視線を投げた。廊下側の席の先頭で、数人の少女が固まって話しをしていた。そこに座っている少女が振り返った。切れ長の大きな瞳が、ちらりと充へと投げかけられた。あちらでも、この話をしているのだろうか。
「うーん」
「なぁ、行こうって。海だぜ、海。決定な。お前がいないと話にならねぇんだよ」
 海ねぇ、と呟いて首を傾げる。悩む様子の充を見て、本田は強引なくらい勝手に話をまとめてしまった。本田が言っていることの意味がよく分からないまま、充は仕方なく頷くしかなかったのだった。

 茜色に染まる住宅街を、歩く。人気はまばらで、何処かで夕食の支度をしているのだろうか、微かにカレーの匂いが漂っている。家々の軒先には風鈴がかけられていて、涼やかな音色を辺りに響かせている。
 白いスニーカーがまだ熱を持つアスファルトを踏みしめる。自分の足音が遠くなっていく気がする。向かっている場所は一つなのに、何故かその形がぼやけた様に感じられて、重い足取りはなかなか進まない。けれども通いなれた道のりは、例え意識を遠くに手放していたとしても其処にしか繋がっていない。気づけば自然と自宅の前に辿り着いていた。溜息を吐きながら玄関を開ける。
 その時視界に入ってきたのは、真っ赤なエナメルのパンプスだった。姉のものではない。こんな鮮やかな色のものは選ばない。手に取る。硬くて冷たい、滑々とした感触が手に伝わる。甘い匂いすら漂いそうな気がする。パンプスを元に戻すと、スニーカーを脱いで部屋に上がった。
 結婚式を済ませた後は、披露宴の準備が待っている。その余韻と期待が家中にあふれかえっている。本来ならばそれを喜ぶべきなのだろうが、充には何故かそれが不快で仕方がなかった。二階へ続く階段を上がれば、すぐ其処につい先日挙式をあげたばかりの姉の部屋がある。開けっ放しのドアから、白い足が見えた。
「あ、おかえり」
 ベッドに腰を下ろしたまま、悠子が顔を上げた。そのそばに、黒いワンピースを着た女性が床に腰を下ろしている。彼女が振り返る。耳元に垂れ下がったピアスがきらりと揺れた。
「(……あの時の)」
 直感的に、意識があの日へ返っていく。ブーケトスの為に現れた姉を迎える人々の環の外に彼女は立っていた。濡れたように光る目元や、赤く色づいた唇が際立ち、参列者どころか、花嫁である姉よりも際立って美しかった。恐らくそれは彼女が着ていたドレスが原因ではなく、その体全体から漏れていた雰囲気から来るのかもしれない。
 そしてそれは挙式の日だけでなく、今も、耐えることはない。あの日と違って、少しだけ距離が縮まっていることもあって、その芳しく甘い方向は、濃密な熱気のように充の脳を直撃した。
 それでも表情は変えなかった。男としてのプライドだったのだろうか。ただ軽く会釈をすると返事もせずに自分の部屋に入った。
「……はぁっ」
 ドアを閉めた瞬間、背中をドアに預けたままずるずるとその場に座り込んだ。体中が火照っている。あの目が、髪が、においが、全身にこびりついている様な気がする。全身の熱が集中していく。血の気が集まっていく。体の中心へ、体の中心へ。
「……まずいなぁ」
 頭を掻き毟る。どうすればいいのか、なんて分かりきっている。それをすれば、この苦しいほどの熱情からも解放されるのだろう。ああ、解き放ちたい。なのに。
 下肢へと伸ばそうとした手を止める。この匂いも、熱も、去って欲しいと思うのに、それ以上にこの余韻の中にいたいと願う自分がいる。この肉体の苦痛すら、甘く疼いて毒になる。中毒症状すら起こしそうだ。その相反する意識の戦争の中で、矛盾が摩擦を起こす。這うようにベッドまで辿り着けば、その上にごろりと横になる。目を閉じて、その苦痛に近い欲求を噛み砕く。『去れ』『留まれ』を頭の中で繰り返す。
 やわらかい何かがそれに触れた。驚いて跳ね起きる。目を開いて其処に視線をやると、彼女がそこに触れている。
「なに……」
 しっ、と唇を鳴らして、彼女は人差し指で充の唇を塞いだ。左手はまだ充のそれに触れている。制服のズボンの上から緩やかに上下される。その度に甘い快楽がそこを中心に全身に広がっていく。
「あ……っ、」
 身をよじる。それを直視できずに、目を閉じて顔をそらせた。
 ああ、それでも。鼻腔を突くのは彼女の甘い体臭。その指の所作一つすら、脳の奥を痺れさせる。それだけで十分達してしまいそうなのに。ああ、彼女の指先が甘く自分を誘導する。
「やめ……」
 ズボンの中から、己のそれが取り出される。
限界を告げると、それを慰める手がその速さを上げた。怒り、猛り、張り詰めたその欲望の先端からは、とろとろと蜜を垂れ流している。そして張り詰めた果実がはじける瞬間、その先端は熱く滑った粘膜の奥へと吸い込まれていた。
 その瞳に涙を溜めたまま、充は大きく息を吐く。これほど弾け飛ぶ花火のような快楽は初めてだった。視線を落とせば、自分の一部の先端は彼女の口内へと納まっていた。中に残っている命の粒を吸い上げられれば、背筋がぞくぞくと粟立つ。
「あ、はぁ……」
 水滴が頬を伝う。恥辱と悔しさとそれ以上に解放の悦びに、むせ返るような熱いものが胸の奥でこみ上げる。「何故?」と言葉を発しようにも、それは声にはならなかった。
「またね」
 耳元で熱っぽく、そう囁かれる。甘い声音に、また全身の神経が蕩けてしまいそうになった。慌てて顔を上げたのだけれど、其処にはもう彼女の姿はなかった。
「なんだったんだよ……」
 苛立ち交じりの声で呟きながら、充は上体を起こした。痙攣と硬直を繰り返した関節が軽く軋む。何かが落ちた音を聞くと、そちらに視線をやった。メモのような小さな髪が落ちていた。手に取ると、其処には電話番号が記されてあったのだった。

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