あたしは瞬間的に、突発的に、衝動的に光をその場に押し倒していた。彼の上に跨って、見下ろす。その顔はきっと世界中の何よりも醜かったのだろうと今は思う。光の詰襟のボタンを外しながら、あたしは攻め立てるように次々と台詞を吐き出した。
「後先考えんと家飛び出すぐらいの考えしか浮かばんくせに――力になりたい?笑わせんなや。あんたに何ができるって言うがよ?あたしの何がわかるがよ?あたしは――」
そこから先の言葉がどうしても繋げなくて、あたしは押し黙る。目に入ったのは、日焼けもしていない白い肌だった。次いで、困ったような泣きそうな顔をしてあたしを見上げている光の顔が飛び込んできて、あたしは思わず手を止めた。
自分がしようとしていることが、醜悪な欲望に捕らわれたものでしかないことは、最初からわかっていたはずなのに。
守りたかったのは、小さなプライド。
光が欲しいと願った。救われたいと心底祈った。だけど今目の前にある小さな陽だまりを見て、あたしは嫉妬に近い苛立ちを強く感じた。
この手で、汚してやりたかった。思い知らせてやりたかった。真っ直ぐなままでいることが、どれだけ難しいか。そしてそれが、どれだけ羨ましいことなのか。
それを認めないことが、あたしの小さなプライドだった。
何もかも崩れてしまった気がして、あたしは一気に冷めてしまった。光の上から身体を離すと、背を向けて言った。
「……もう、帰りや。あんたの場所は、ここじゃないやろ?」
それが、光との最後だった。あたしはあの後、光の反応を見る前に家に帰ってしまったし、その後彼がどうしたかなんて知るよしもなかった。恐らく彼も素直に帰っていったのだろうけど。
数日後、あたしは家の庭にホースで水を撒いていた。その近くでは、母がせっせと花壇の草を抜いている。
キラキラと散る水しぶきをぼーっと眺めて、あたしは小さくため息をついた。
「ねぇ、おかあさん」
「何よ」
母はあたしを振り返らずに作業に没頭していた。あたしもそれを気にすることもなく水しぶきをあちこちに散らしていた。
「綺麗なものって、綺麗やってわかってるのに汚したくなるよね。なんでやろ」
「それはあんたの部屋のことですかね」
「……失敬な」
不満そうに口を尖らせるあたしを一瞥して、母は苦笑を浮かべた。
「綺麗やから、やない?」
「はぁ?」
「例えばアクセサリーとかもそうやん。そのままほっといたら綺麗なままやけど、使ってるうちにくすんで、汚れて……それでも自分に合うように馴染んでくる」
「うぅ〜ん……」
母の言っている意味がよく解らなくて、あたしは項垂れて頭をがしがしと掻いた。そんなあたしの様子をみて、母は手を止めて振り返った。
「じゃあ、芸術家肌のあんたに聞くけど、真っ白なノートを見て落書きせんでおれる?」
「う……」
いやみを言われていることは解っていたが、言い返せなくて仕方なく視線を逸らす。水を大げさに飛ばして見せて、木をびしゃびしゃに濡らしてしまった。
「まぁ、あんたが言いゆうがはかなり歪んだ考えかもしれんけど。……でも、心配せんでもそれは誰でも通る道やと思うで。少なくとも、一度失ったものを取り戻すことは、完璧にはできんから」
だからこそ。失ってしまった光と輝きを、あの子が持っていたから。あたしはあれだけ醜くなってまで過敏に反応したのだろうか。それは、自分でも解っていた答えだっただけに、指摘されれば余計に実感じみたものになっていた。
あたしは急にそわそわし始めて、いてもたってもいられなくなってホースを投げ出した。
「あ、ちょっと水やってよ!」
「また後でー」
母の怒号が飛んだが、あたしは構わずに自分の部屋に駆け込んだ。埃をかぶりそうになっていたパソコンを引っ張り出して、電源を点ける。ワードを起動して、タイトルを記入する。
迷うことなく、『手紙』と打った。
少しの間カタカタと文章を打って、ふと手を止めた。言葉を綴るなんて、久方ぶりだった。あたしは窓の外を見た。そこには、いつもと同じように輝く太陽が世界を照らしていた。
四角い枠に囚われた部屋の中で、あたしは自然に笑えている自分に気付かなかった。
「倖子―っ!手伝えって言うてるやろーっ!」
「あぁ、はいはいーっ」
大きく返事をして、あたしは部屋を飛び出した。淡く発光する液晶を置き去りにして。
その画面の中に、書きかけの文章が残されていた
『君は、知らないのだろう。
君の笑顔も
くすまない仕草も
その無知も
全てが光り輝いて
あたしの光だった
光だった
小さなあたしの太陽
どうか どうか
その光を失わないで
あたしは反射される月夜を選ぶよ
冷たい夜も
哀しい夜も
君を感じていられるから』
男は、空を見ていた。
がらんとした部屋に、荷物はなかった。
男は、かつて少女がそうしていたように外の世界を見ている。
手の中のビールを一口飲んで、男は部屋の鍵を持ち直し、その場を後にした。
少年は、目に涙を溜めていた。
手の中には、買ったばかりのセブンスター。
何度か咳き込むも、少年は懲りずに煙草を口元へと運ぶ。
そして涙で潤んだ瞳で空を見上げた。
そこには、いつだって。
光を放つそれが、常に。
存在していた。