Out of the Worlds, The World in her Mouth.

 夜空を見上げたら、月が浮かんでいた。雨上がりの少しまだ雲が残る空に、ぼんやりとぼやける様に月が浮かんでいた。凛呼はそれを眺めながら口元を綻ばせた。手元から口元から零れるこの紫煙が空に舞い上がって、あの月を霞ませればいい。そんな風に思って。 
 短くなった煙草を携帯灰皿にねじ込んで立ち上がる。秋の夜は憂鬱を孕んだ吐息をその唇から漏らす。それは甘美な毒となり、心身を蝕む。それは快楽だ。快感だ。それでも構わないと思わせるほどに、優美な仕草で。 
 この星の影を踏んで遊ぶ。夜は人の気配を消すから。それが楽しくて仕方がない。それは浮遊だ。宇宙だ。夜だ。そんなことを凛呼は常々考える。イメージは浮遊。そしてそれは世界だ。煙草の代わりにキャンディを咥えて口の中で転がしては、地球をしゃぶっている気分になった。 
 公園から戻ると、部屋の前に人の姿が見えた。うずくまって頭を伏せて。 
「瑛子さん」 
 凛呼は彼女の名を呼んだ。彼女は顔を上げる。長く黒い髪がはらりと零れる。その髪を見て、凛呼は「まるで雨だ」とぼんやり思った。 

 瑛子は何も喋らない。凛呼も何も聞かない。一つのベッドの上に腰を下ろして、ただぼんやりと時間を過ごす。それは美しい酸素だ。柔らかな呼吸だ。瑛子はきっと、それを求めて此処へ来るのだ。 
 瑛子は、魔性の女だ。美しいものを愛しているし、美しいものに愛される。自由気ままにそれを貪り、自分の中に取り込んでいく。そしてそんな彼女もまた、美しい。プラトニックな絵の中に、淫売さを隠し持ってそれを武器にする。その方法を彼女は知っている。 
 凛呼はそれをただ見つめる傍観者であり観客だ。いつだってその環の外にいることを好む。それが彼女にとっての正義だから。 
「貴女は」 
 と、不意に瑛子が言葉を発した。凛呼は抱きしめたぬいぐるみの毛並みを指先で弄りながら相手に視線を流した。 
「世界が怖いと思ったことはある?」 
 凛呼は首を傾げた。相手の言葉の意味が良くわからなかった。瑛子はずっとうつむいていてその声音だけで判断するしかないのだが、怯えているのかもしれない。継ぐ言葉を発しあぐねている凛呼を待たずに、瑛子は言葉を続ける。もとより独り言なのかもしれないが。 
「あたしは怖い。飲み込まれてしまいそう。そして何処かにいってしまいそうだから、そうなったらあたしはどうなるのかがわからない」 
 瑛子はいつだって美しい喋り方をする。今ではそれなりに年齢を重ねた人か女を模倣する男性かしか喋らない喋り方をする。だけど、それも凛呼の前ではしない。隠しても隠しても見られているから。 
 凛呼はキャンディを舌先で転がした。そして、ポツリと呟く。 
「それは、あんたが望んでるからだよ」 
 瑛子は顔を上げた。泣いていた。長い髪が濡れた頬に張り付いて、流した涙の量を示していた。凛呼は淡々と続ける。 
「触れたいと願うことは、触れられたいと願うことと同じ。それと一緒」 
「わからない」 
 瑛子はゆるゆると頭を振った。両手で顔を覆って、その代わり隠れていた嗚咽が漏れ始める。 
 凛呼は淡々と、ぼんやりと彼女を眺めていた。何も感じてはいなかった。そんな自分を『あたしって冷酷だなぁ』等と冷めた頭で確認した。 
「表裏一体ってこと。怖いと思うのは、望んでいる自分を否定したいからだよ」 
 瑛子は泣いていた。その言葉の意味を一番知っているのは瑛子だったからかもしれない。世界は醜い。だからこそ甘美だ。世界が張り巡らせた罠は、ただ純粋に人を傷つけては狂わせるのだろう。 
 瑛子は魔性の女だ。世界を取り込もうとすればするほど、世界に飲み込まれていく。それから逃れるためには、瑛子は人間でないものにならなければならない。常に孤高で美しく、完璧でなければならない。だけども、この涙が教える事実は瑛子がただの人間であるということだ。瑛子は飲み込まれようとしている。 
 こんな姿を瑛子を愛する美しい者たちが見たなら、皆離れていくのだろう。結局瑛子は、真実を掴むことなどできないのだ。 
 そんなことを考えていると、不意に柔らかいものが凛呼の唇に重なった。瑛子の唇だった。その湿った舌先が凛呼の唇を、歯列をなぞり侵入する。湿った舌先が絡み合い、凛呼の口内のキャンディを舐めあい、奪い合う。口の中で世界は、二人の女によって回っている。そして少しの時間がたった後、キャンディは跡形もなく消えた。 

「貴女は綺麗。でも、あたしのものにはならないんだね」 
 重ねた唇を離した瑛子は、凛呼の顔を覗き込んで呟いたのだった。 
「だから愛おしいのかもしれない。殺してしまいたいほどに」 



 衛星は惑星を巡る。そしていつか、どちらも跡形もなく溶けてしまうのだろうか。

END