窒息

「ヤバい。あたし、あんたに惚れそう」
 そう告げてキスをしたとき、貴方が苦笑いを浮かべたのを覚えてる。そしてそのまま肉体だけが熱を持って、ホテルへなだれ込んだ。
 裸で触れ合うときの貴方は、まるで獣だ。あたしは弱い部分を攻め立てられて、何度も渦の中に飲み込まれる。心理的な意味ではなく、感覚的な部分であたしは貴方に支配されて、溺れる。

 一瞬だけ胸を煌かせた想いは、時間と逢瀬を重ねるたびに冷えて、固まって、小さなしこりになった。これは恋ではない、ましてや愛なんかでもない、とあたしは自らそう感じ取った。
 あなたと会うのは、一ヶ月に一度だけ。中途半端な距離感があたしの想いを遠ざけたのか。それともそれは年齢に対するものなのか。
 貴方は、あたしより一回りも年上だ。普段は優しい表情に大人びた陰を見せて笑う。時には無邪気な子供のように笑って、躍る。
 それはしなやかな獣だ。その四肢が、あたしを溶かしていく。それは不快でも快感でもない。ただ少しだけ切なくて、息苦しいなにか。
 あたしは彼との関係を清算しないまま、いくつかの恋を生み出しては殺すことを繰り返していた。



 薄暗い証明の中、躍る彼を見てあたしはぼんやりとそんなことを考えていた。手に持ったハイネケンを飲み干して、体の芯まで響くようなリズムに身を任せる。目を閉じると、そこがまるで宇宙の真ん中で、太陽のリズムが世界を照らしているような気がした。
 不意に手を握られて、あたしは目を開けた。指先が絡まる感覚に横を見れば、彼が腰を下ろしたところだった。
「前に行けよ」
 そうすればもっと楽しいのに、と告げて彼は笑った。寂しいのかな、それとも気を使ってくれてるのかな。どうなのかあたしにはわからないのだけれど。
 あたしは緩く首を振って、力なく笑った。
「いい。酔ってるし。此処で聴いてる」
 本当にそのとおりだった。躍れる体力も気力も殆ど残っていなかった。それに、ここでこうして旋律と体温に身を任せるのも気分がいいものだ。
 彼は少しだけいつもの苦笑いを浮かべて、握った手を離した。先の読めない苦笑いがあたしは嫌いで、酷く惹かれていた。


 イベントが終った後、あたしたちはいつもホテルへ行く。とりあえず寝たいし、休みたいし、お風呂にもはいりたいから。
 疲れた肉体をフカフカのベッドに投げ出せば、携帯が鳴った。画面を開いた瞬間、あたしの心臓が跳ねる。今、あたしが好きな子から。

『好きだよ。』

 と、一言だけ短く告げられていた。嬉しくて、返事を返そうとしたら、充電が切れた。あたしは渋々携帯を投げ出して、ごろりと仰向けになった。
 彼はあたしの上に覆いかぶさった。服の下に手を入れて乳房を弄る。スイッチが入ったみたいに、一瞬で彼は『雄』になる。あたしはそれが嫌いじゃない。とても楽だから。
 だけど、今日は気分が乗らなかった。大事なものの基準が切り替わっているからかもしれない。
「……今日は嫌」
「なんで」
「気が乗らない」
 あたしは普段、よく喋る。だけど彼とはそれほど会話を交わさない。説明する必要がないから。
 でも、セックスは好き。この人の与える快楽は、嫌いじゃない。拒んだ後一瞬考えて、あたしは彼を見た。
「キスしなかったらいいよ」
 彼は一瞬真顔になってから、あたしに悲鳴を上げさせた。


 出たり入ったりを繰り返す。単調な反復運動の皮一枚はさんだ裏側では、熱くうねる肉の流れが細かな粒子になって大きな波を作る。
 この人のセックスは嫌いじゃない。息が出来ないから。窒息したような感覚になって、頭がぼんやりする。顔を近づけてキスをしようとするのだけれど、あたしは顔を逸らして指を咥えた。
「好きなひとでも出来た?」
 熱く湿った声で彼が聞く。あたしは答えない。必要ないから。あたしと貴方の関係において、そんなものはきっかけに過ぎないんじゃないの?
 とっくの昔に、ただのしこりになってしまったんじゃないの?
「何でセックスするの。何が好きなの?」
 あたしは悲鳴をあげながら、顔を逸らして笑う。その度に体内でそれは硬くなる。まるで怒っているように。
 普通なら、その言葉が求めるものは一つだ。彼もそれを望んでいたのかもしれない。だけど、それは恋じゃない。あたしにとっても、彼にとっても。そしてそれは何も生まない。無意味で空虚だ。
 だからあたしは、一つだけ隠し事をして真実を口にした。
「セックスが、好き」
 二つ揃えば意味が少しだけ変わるのに、あたしはそれを避けた。語弊を招きそうだったし、どうせならどこまでも都合が良くて馬鹿な女だと思われたほうがいい。
「お前、馬鹿か」
 その罵倒を聞いて、あたしは首を傾げた。あたしが意図して導こうとしたものとは、少しだけ意味も音色も違っていたから。
「……馬鹿な女だよ。何も考えて、ないから」
「なんでそんな嘘つくの」
 苛立たしげに吐き捨てて、彼はあたしを啼かせる。それは、自分が望んだ答えをあたしが言わなかったからなのか、それとも薄ぼんやりとあたしの形を感じ取っているからなのか。両方だけど、前者が強いんだろうなぁ、と思ってあたしは笑った。
 何も可笑しくはない。だけどこみ上げる笑いを止められない。嘲笑に近いのかもしれない。どこまでも、あたしは酷い女だ。
 顔を逸らしたあたしの顔を押さえつけて、彼はキスをした。あたしはそれに乗ろうと思ったのだけれど、その唇に噛み付いた。別に嫌悪があったわけじゃなく、ただ単純に『そうしたほうがいい』と理性が言ったから。ただでさえ中途半端な関係に、これ以上余計なものを混ぜたくなかった。
「好きなひとって、どんなおとこ?」
 と彼は聞いた。あたしは笑って顔を逸らす。
「男とは言ってないでしょ」
「じゃあ、どんなおんな?」
 なんでそんなことを聞くんだろう、と考えた。あたしの気持ちは貴方にとって重いものではなかったのだろうか。
 あたしは答えなかった。面倒だったから。


 幾度もの波と気絶を繰り返して、時間は経過した。目が覚めるたびにあたしは犯されて、それからはもう黙って彼の怒りを受け止めていた。彼も何も言わなかったし、聞かなかった。それはただ単純な雄と雌だった。
 昼ごろになって、あたしたちはホテルを後にした。ベッドから抜け出した瞬間、あたしたちは夢から覚めたように普通のにんげんになる。何の性的な関係もないような、そんな会話を交わす。
 彼はあたしを駅まで送ってくれて、あたしは笑ってその場を後にした。


 その後、彼からメールが届いたのだけれど、やっぱりそれはなんの情熱もない言葉だった。
 ベッドの中でだけ、彼は独占欲をむき出しにして愛を求める。二人きりのときですら、そんな顔も見せないのに。そこに愛など存在するのだろうか。それはただ単純な欲求ではいけないのだろうか。

 ころころ移り変わる感情と表情をもてあまして、あたしは「自分も同類、か」と小さく自嘲した。


END