「 沈む。 」
貴方は、森だ。
それは深く暗い罠。それ自体が迷路のように獲物を取り囲み、孤独と恐怖で威圧する。
貴方は、森だ。
柔らかな風に乗せて旋律を響かせる。陽光を浴びて息づく体温が、愛と安堵を与える。
ならばあたしは貴方に捕らえられるがままの獲物となろう。
貴方を捕らえる獲物となろう。
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両手を縛られたまま煙草を吸う。紫煙が小さな部屋に緩やかに散らばる。それは美しくも柔らかな呼吸だ。それは確かにこの臓腑を汚しているはずなのに、体内は白く柔らかな雲に包まれているかのごとく静かに眠っている。
それは羽毛か綿毛か。
下着姿のままなのに、それすら気にならない。自分以外に人の気配がないからだろうか。なんと浪々としているんだろう。フローリングの冷たさが肌に心地よく、ごろりと横になった。黒い皮の首輪につけられた鈴がちりんと鳴った。それだけで嬉しくなる。安堵する。そして恐怖する。
捕らえられているのだと、確認するから。
午後三時の光がブラインドの隙間から差し込んで電気をつけていない部屋をほんのりと明るく照らした。壁掛け時計がカチカチと一定のリズムを刻む。まるで心音の如く。
この部屋は、嗚呼、生きている。ならば自分はまるでその中を徘徊し、次第に融け行く獲物のようだ。可笑しくて堪らない。楽しくて堪らない。
双眸を閉じた。長く濃い睫がふわりと落ちた。もし次の瞬間目を開ければ、肉体は分解され、どろどろとした何かになり、吸収されていくのだろうか。そしてこの生物の一部と同化して、命の巡りに回帰する。そう考えると自分がまるで卵のような気がした。笑い出した。液状のものになった後は、何かに生まれ変わるのだろうか。
それは自由に飛べるはずじゃないのか。
ガチャリ、と鍵が開く音がして飛び起きた。それほど短くもなっていない煙草を灰皿で揉み消すと、思うように動かない体を起こしてバタバタと玄関に向かう。扉が開くと同時にその胸の中に飛び込んだ。
その小さな衝撃でずれ落ちた眼鏡を直して、男は口元に柔らかな笑みを浮かべると、その女の肩を抱いた。後ろ手で扉を閉めると、鍵とチェーンをかける。女は体を少しだけ震わせた。
理由などは単純なもので、それが本能の意図する部分であるからこそ、とだけ口にする。単純にもそれは美しいものだ。欲望とは即ち愛に直結しているのかもしれない。
彼女の体を抱いたまま、彼は室内へと入っていった。部屋の中は緑色のもので統一されており、差し込む午後の光が観葉植物に呼吸を与えている。
部屋の主が誰なのか、定かではない。ただ此処は、隔絶された異空間であり、一つの世界であり、時空だ。イメージと願望と、欲望が創り上げた御伽の国。そしてこの世界の神は彼だった。
彼はキッチリと締め上げられた黒いネクタイに指を掛けるとするすると解いた。そのネクタイを彼女の双眸にあてがい、後頭部で結ぶ。彼女は顔を少し上げておとなしくそれを受け入れた。その瞬間世界は閉ざされた。視覚を奪われて、その他の感覚しか残されていない彼女には、彼が与えるものが全てだ。彼女が与えるものは、己の心と肉体そのものだ。
研ぎ澄まされている。それはまるで、刃に波紋が立つようだ。彼女は暗闇の中でそれを過敏に受け入れながら何度も絶頂に達した。
呼吸もままならない。感覚も操れない。まるで、森の中に沈んでいるかのようだと思った。
目が覚めると、いつもの部屋だった。だけどいつもと違うのは、両手足が自由に動くことだった。
彼女は眠い目をこすりながらあたりを見渡したけれど、誰の姿も無かった。水を飲もうと立ち上がり、ペタペタと床を鳴らしながらキッチンに向かっている途中、ふと、テーブルの上を見た。
部屋の鍵が、ポツンと置かれていた。それを見た瞬間凍りついた彼女は、その場にしゃがみこんで静かに涙を流した。
獲物を喰らい尽くした獣は、眠りについたのだ。例えどんなに陽光を浴びようと、この森はもう目覚めない。命には限りがあって、そして息絶えたのだ。
枯れてしまった。枯れてしまった。腐ってしまった。
小さな世界は終わりを告げて、女は胸のうちに小さな夜を作ったまま、その場を動けずにいた。
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君は、宇宙だ。
幾ら探り追い求めても限が無い。そのうちそれは大きく口を開いて何もかもを飲み込んでしまう。
君は、宇宙だ。
柔らかな質感で、すべらかな呼吸で命を吹き込む。それは自然と神を模倣するもの。
ならば僕は君を探り当て、支配する獲物となろう。
君から逃げる、獲物となろう。