支配される指先に、僕は嫉妬に似た絶望を繰り返す。

 息が出来ないほど、胸の奥が圧迫されている。出たり入ったりを繰り返す圧倒的な力差に、頭の芯が真っ白になる。 
 熱帯。結露する窓。へばりついたトカゲ。熱気で霞む視界。吸い付くように絡む肌の感触。 
 身動き一つ取れないような緊張感の中で、ひたすらに空気を取り込もうと大きく喘いだ。力無い手は宙を掻き、劣悪な衝動や羞恥や破壊衝動や独占欲を孕んだ熱波が次々と波のように押し寄せる。 
 その時、頭の隅で女が呟いた。 

 『あたしはね、綺麗なものが大好きなの』 

 その一言で、眼を開いた。 



 くすんだ檜の天井が、真っ先に視界に飛び込む。固い畳の感触がじんわりと体によみがえる。古い扇風機が首を動かすたびに軋んだ音を響かせている。蝉の声が、纏わり付くほど煩い。 
 自分が眠っていたということを自覚するのに、数分の躊躇いがあった。非現実的なリアルから強制的に引き戻された時の戸惑いと、微かな安堵が体を包む。 
 気だるい上半身を起こして、一志は全身にじんわりと汗を掻いていることに気づいた。思わず、自嘲に似た笑いが漏れる。 
 あんな夢を見るなんて、まるで女だ。体の細胞の一つ一つまで犯されていくような感覚に、呼吸一つでさえ支配されているかのようだった。しかしそれが不快どころか、更に深く求めるようにうねる激情を芯に感じていた。それは、夢から覚めた今でも確かな熱となって一志の中心に灯っている。 
 ――どうかしている。 
 寝癖のついた緩やかなパーマの掛かった頭をゆるゆると横に振って、一志は立ち上がった。 

 大学の夏休みを利用して実家に帰省してきて、もうそろそろ一週間がたとうとしていた。盆を間近に控えた夏の木々は一層その色を増し、濃い蒼に撒き散らしたペンキのような雲が、強い日光を受けて輝いている。裏山から吹く風は涼やかな湿気を含んでいて、それに混ざってどこからか子供の笑い声も聞こえてくるようだった。 
 居間を出て、台所へと向かう。外は夏の音に溢れているというのに、この家はあまりにも静かだった。家族が出払っていて人気がないせいかもしれないが、一志の足音だけが酷く寂しく響いていた。 
 冷蔵庫を開けて、麦茶の入ったボトルを取り出す。手に持ってみると、ボトルはじわりと汗を掻いた。グラスを取り出すのも億劫で、ボトルの蓋を開けるとそのまま直接口に運んだ。 
 青年と呼ぶにはまだ幼い横顔が、天を仰ぐ。日に当たったことがないとでも言うようにうっすらと筋の浮いた白い喉下が、数度上下する。 
「こんにちわー」 
 その時、ドアの向こうから響いたのは若い女性の声だった。冷蔵庫に麦茶を戻そうとしていた一志は、一瞬だけその手を止めた。 
 聞き覚えのある声だ。 
 冷蔵庫を閉めると、ぺたぺたと足音を響かせながら一志は玄関へと向かった。 

 彼女は、真っ白な日傘を差していた。この村では考えられないほど、真っ白に空けるような肌が汗一つ掻かずにモスグリーンのワンピースからすらりと伸びていた。肌が白いのは、一志に至っても同じことなのだが。 
 その顔を見た瞬間、一志はあからさまに表情を歪めた。 
「あら一志君、お久しぶり。元気だった?」 
「それなりに」 
「夏休みで帰ってきてるの?ご両親は?」 
「仕事ででかけてる」 
 素っ気無い返事を返して、一志は視線を逸らす。彼女――瑛子はそんな反応を気にする様子も無く手に持っていた包みを一志に差し出した。 
「私も今帰ってきたところなの。……これお土産。みなさんでどうぞ」 
 「どーも」と短く告げて包みを受け取った。瑛子は、一志の顔を覗き込む。 
「あんまり、変わってないのね」 
 黒く長い髪がさらりと毀れるのを一志は視界の隅で感じた。その時、冷めかけていた熱が疼くのを一志は確かに感じた。無意識に一志の肩が微かに震える。 
 瑛子の指先が一志の腕に触れた。咄嗟に、持っていた包みを落としてしまう。小さく息を呑んだ一志を見て、その瞬間瑛子の眼が変わるのを一志は捕らえていた。 

「――今から、うちにこない?」 



 暗い部屋に入ると、ひんやりとした空気が熱を持った肌を刺した。低めに設定されたクーラーが冷気を吐き出している。恐らく点けっ放しだったのだろう。 
 いつか、最後にこの部屋を訪れた時と何も変わってはいなかった。シンプルに片付けられた勉強机。整理された本棚。清潔な匂いのするベッド。何もかもがあの夏の日のままだった。 
 ベッドに腰を下ろすと、瑛子が唇を重ねてきた。そのままなだれ込むように横になると、ベッドのスプリングが軋んだ悲鳴を上げた。 
「貴方って、本当に変わらないわ」 
「そんなことない」 
 否定してみたが、瑛子の瞳は楽しげに揺らめくだけだ。まるで玩具を弄ぶように、その細い指先が唇に触れ、首筋を、鎖骨をなぞっていく。 
「いいえ、変わらないわ。髪形を変えて、服も買って、新しい環境に馴染んだとしても――あなたの此処は」 
 と、肌を滑っていた瑛子の指が、薄い胸の中心で止まる。 
「何も変わっていない。この肌も、この髪も、この唇にも、全てにあたしは刻みつけたのだから。あたしの証を残したのだから。」 
 続けざまに並べられた自己陶酔に、一志は口をつぐんだ。馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、それすら許さない絶対的な支配が身動き一つ取れなくさせる。 
「貴方は、綺麗だわ」 
 と、瑛子は嬉しそうに瞳を細くした。 

 ――そうでなければ、なんの興味も持たないくせに。 

「俺は、あんたの玩具じゃない」 
「知ってるわ」 
 ささやかな反抗も、薄い闇の奥に吸い込まれる。何もかもが無意味だった。 
「だけどあなたは、あたしのお人形よ」 
 それも、一志は知っていた。 



 最後に会った3年前の夏の日。一志は彼女が自分のものではないことを知った。貼り付けにされた蝶のような、コレクションの一部でしかなかった。 
 夏休みの講義を終え、真っ直ぐに瑛子の自宅にやってきた一志は、汗で肌に貼りつく半そでのカッターシャツの襟元に指を引っ掛けてはたはたと風を送り込む。体重で軋む急な階段を上がって、瑛子の部屋の戸を少しだけ開けたとき、それが視界に飛び込んできた瞬間、一志は手を止めて凍りついた。 
 このベッドの上に、少女の四肢が散らばっていた。しなやかな未発達の裸体が、瑛子に絡みつく。その時瑛子が呟いた。 

『あたしはね、綺麗なものが大好きなの』 

 それを聞いた少女が、嬉しそうに瑛子を導く。 
 熱気を纏うその行為を見るに耐え切れず、一志はその場を逃げ出した。頭の中が真っ白になって、意味が分からなかった。 
 気付いた時には自分の部屋にいて、呆然と立ち尽くしていた。涙なのか汗なのかわからないもので、顔面はぐっしょり濡れていた。 

 その夏を最後に、瑛子は姿を消した。 
 一志も探そうとはしなかったし、とりつかれたように勉強に熱中していた。 
 風の噂で、瑛子が村を出て都会に出たとか、不倫をして妊娠したとか、真偽も定かでない話を色々聞いたが何の感慨も湧かなかった。 



 そして今、何故かこうして再び同じベッドにいる。 
 かつてあの少女がいたベッドに。 

「――俺の、ことなんか」 
 与えられる快楽に反応を示しながら、一志は無意識に言葉を発していた。 
「好きじゃないくせに」 
 その言葉を聞いた瑛子は、「あら」と眼を丸くした。驚いたような表情で顔を上げ、真っ直ぐに一志を見つめる。 
「好きよ。大好きよ。だからこうして、可愛がっているのに」 
 一志は、また表情を歪めてそっぽをむく。されるがままになっていながら、不満だけが胸の奥で燻っていた。 
 知っている。自分と彼女では『好き』のニュアンスそのものが違うことを。自分はいつまで経っても、彼女のお人形であることから逃れられないのだ。 
 この胸の奥の苛立ちも、その理由も、一志は悲しいほどに理解していた。だからこそ、ここから逃げられないのだ。 

 自分は、いつまで経ってもお人形なのだ。 

 それでも。それでも。この一瞬だけは彼女に支配されていたい。次の夏は、まだ遠いのだから。 
 結露した窓を見れば、一匹のトカゲが微動だにせず佇んでいた。 



 それは何もかもを、見透かした瞳で。

END