蟲
これは酷いジョークだ。夕べのことは殆ど覚えていない。なにをしたとか、どこがどうだったとか、頭の中の映像は途切れ途切れで霞がかってぼやけている。
妙な笑いがこみ上げてしょうがない。胸の奥がむかむかして吐きそうだ。ぼやける。自分自身に焦点が合わない。
左手を見てみた。確かにそこにはその軌跡が残っていた。
ひとしきり自嘲を繰り返した後、あたしは体を起こした。節々を動かすたびにずきずきと痛んだのだけれど、それも仕方ないのかもしれなかった。下着姿のままのそりと起き上がって足を引きずってキッチンへと向かう。床には酒瓶が転がっていた。冷蔵庫を開けて、スポーツドリンクを取り出すと、一気に飲み干した。冷え切ったそれが、熱を持って渦巻く体内を駆け抜けていくのはある意味快感だった。
窓の外を見れば太陽はとおに高いところにまで上っていて、また一人取り残されたことを知った。
あたしはドアに備え付けのポストを開けると、新聞を取り出して部屋に戻っていく。小さなあたしのテリトリーは昨夜の狂気の匂いを少しだけ残して篭っていた。カーテンを開ける気にもならない。
床に寝そべってみた。やっぱり体の節々が痛むのだけれど、冷たくて気持ちよかった。
不意に、ドアのチャイムが鳴る。あたしは出るのも億劫でそのまま意識を手放した。
気づいたら、布団で寝ていた。心配そうにあたしを覗き込む男の顔が目に入った。
「なにやってんの」
呟いてみたら、喉は枯れていた。酒焼けと煙草と大声のせいかもしれない。男は眉根を寄せて少しだけ怒ったような顔であたしをみる。
「お前こそ、なにやってんだよ。部屋こんな散らかってるし。……怪我、してるし」
「別にー、たいしたことないよ。それより、純こそなんでここにいんの」
純は小さくため息をつくと、床に座りなおした。少しだけ翳りのある目を伏せて、恨めしげに呟いた。
「おめぇが呼んだんじゃん」
あたしは枕元に放置していた携帯電話に手を伸ばした。いつの間にか切っていたらしい電源を入れて送信履歴を見てみれば、確かにその形跡が残っていた。
『あのねーさっきまで足元を飛んでた蝶がね、死んでたの。華ならその辺にいくらでも咲いてるだろうにね。虫に食われたわけでもなく、車に轢かれたわけでもないのにね。
道端にね、転がってたんだよ。一人ぼっちで。
じゅみょうってやつなのかな。つーか寿命って何さ?
にんげんなら年くってババァになって息する筋肉もなくなって、そんで医者が言うんだ。「ごりんじゅーです」って。
死にかけてるやつはほったらかしなのにねって、それはあたしの場合だけか?延命そーちってやつで無理矢理生かされてるやつだっているのにね。なんか間違えてない?
それって周りのエゴか?本人の希望か?死ぬってなんだろ。
死んだように眠るっていうじゃん?もしかしたら寝るのは死ぬための予行演習かもね。なんかおもしろいね。
あたしももっかい寝る。おやすみー』
ざっと目を通しただけで吐き気が戻ってきた。何書いてんだあたしは。
「別にあんたを呼んでるわけじゃないじゃん」
「こんなトチ狂ったメール送ってこられたら心配して見に来るだろうよ。電話しても、電源入ってねぇし」
はいはい、そうですね。そうですよ。あたしは知っていましたよ。自分が妙に聡くて、狡賢いことくらい。狙ってたのかもしれないよ。その瞬間は。だけど覚えてないんだもの。しょうがないじゃん。
ため息を一つ吐くと、純から目を逸らして背中を向けた。
「あんたが心配する必要ないでしょう。死ぬわけないんだから。それくらい解ってるんでしょう?それに、あたしたちはもう――」
その続きは、どうしても口に出せなかった。確認するだけで涙が出そうになるから。その選択をしたのは、自分だったはずなのに。
「あたし、あんたのそういう中途半端なところ、大嫌い」
代わりに口から毀れたのは、拒絶だった。純は黙っていた。あたしは背中を向けていたから、相手の顔を見ることも出来なかった。静かに立ち上がって、呟いた。
「……ごめんな」
足音が遠ざかる。玄関のドアを閉める音が響いた。
やめて。ごめんなさい。あたしは違うの。そうじゃないの。あなたを傷つけたかったわけじゃ
言い訳が、とめどなく溢れてきた。だけどそれを口にするのもおこがましくて、あたしは毛布にもぐりこんだ。
捨てたのはあたしだったというのに。あなたを失うことが怖くて、もしかしたらそれでもあなたがあたしを愛し続けられるのかもしれないと。
だけど、そういう謀略は失策に終わった。あたしは、自分が口にした言葉を撤回することも出来なくて、失ってしまってから気づいたのだった。
あたしは、大事に思うものを大事にしていたわけじゃなかった。
だけど、と自分自身に問う。あたしは彼を愛していたのかしら。だけどね、あたしは貪欲なの。欲しい、ほしい、ホシイ。彼の体液の一滴残らず、彼の蟲たちを一匹残らず。
ならば、あたしが蟲になろう。あなたの臓腑を嘗め回す虫になろう。