白い鳩は金色の薔薇を模した鍵を咥える



 何かとても悪い夢でも見ている気分だ。あの時感じたあの指も、髪も、肌も、においも、今となっては真実だったのかどうかもわからない。

 ただ確かに掌の中に残っている鍵と空っぽになってしまった通帳だけが、あの日々が嘘ではなかったと証明していた。

それは、真っ白な鳩が広げた翼のように。


*****



 色みのない単調なアパートの一室。こんなに殺風景なのは、恐らく生活に必要な最低限のもの以外は何もそろっていないからだろう。中央に置かれたガラステーブルの上で、コーヒーの入ったマグカップだけが白い湯気を吐き出していた。それを前に床に座り込んだまま、私は日の光が照らす壁を睨み付けていた。手入れもできずにボサボサになった髪すら梳す気にもなれない。昨夜からずっとパジャマ姿のままだ。テーブルの上に置きっ放しの手鏡を覗きこんでみた。隈ができて、眼球は充血している。肌もカサカサだ。それは多分、昨夜一睡もせずに物思いに耽っていたからかもしれない。とても酷い顔をしている。
 前のマンションから持ってきていた薔薇は、窓際で枯れてしまっていた。あんなに好きで、育てていたのに。枯れてしまった。枯れてしまった。
 窓の外から軽やかな羽音が聞こえて、無意識にそちらに顔を向けた。鳩が一匹、こちらを覗いていた。美しい、真っ白な鳩だった。黒目がちな瞳でこちらを見据えていて、喉を鳴らしては首を傾げた。それはとても愛らしい動作で。
 その鳩を見た瞬間、私はゆっくりと膝を立てて立ち上がった。フローリングの上を歩く度に、素足がペタペタと音を立てた。流しの下の棚を開けると、幾つか鈍く光る刃が見えた。その一本を手に取って、眺める。冷たく、透明な光の一閃。手の中で確かな存在を告げる感触に、鳥肌が立ちそうだった。
 もう一度窓の外を見た。もう鳩はいなかったけれど、その代わりに抜けるような青空が広がっていた。人を殺すにはとてもいい日だと思って、私はいつの間にか笑っていた。






「なんか、映画のワンシーンみたいやね」
 初めて会ったとき、彼はそう言って笑った。私はグラスに入ったマティーニを持て余していて、小さなガラスの中から顔を覗かせるピスタチオの殻を指先で弄んでいた。
 その日の私は機嫌が悪くて……とてもじゃないけど誰かと会話なんてするような気分じゃなかった。突然耳に飛び込んできたその声が自分に向けられたものだと察するに、数秒の遅れがあったのもそのせいかもしれない。薄暗い店内に響くPAUL CHAMBERSのアルコに意識を集中させていたものの、ふと顔を上げてみればカウンターの向こうでグラスを拭いている彼と視線がかち合った。
「私……?」
「うん」
 馴れ馴れしい子……と、一瞬にして私の脳裏に不快感がよぎる。飲みかけのマティーニに口をつけて、無視を決め込もうと視線をそらすと、彼は私の前にやってきてその少し垂れ目がちの瞳で覗き込んできた。
「なんか、硬そうやね」
「なによ」
 子供のように無邪気な声質。関西地方出身なのか、訛りが強い。酔いが回り始めていた私は、眉根を寄せると彼の瞳を睨み返す。坊主頭に近いほど短く刈られた髪。二十代前半らしい滑らかな小麦色の肌。鋭い眉は、半分ほどしかない。最近の若い青年らしい容姿から、少しだけ危険なにおいがした。
「貴方……昔暴走族とかやってたクチ?」
 と、思わずそう問いかけたくなった。彼は一瞬驚いたような顔をして、その直後それは苦笑いに変わった。
「なんで解るん?もしかしてお姉さんもレディースやってたとか」
「まさか」
 ピスタチオの殻をペリペリと剥いで、鶯色のナッツを口の中に放り込む。程よい塩気とナッツの甘みが租借するたびに口の中で砕けていく。苦笑いを浮かべて、私は顔を逸らせた。
「裕介」
 近くでシェイカーを振っていたマスターらしき年配の男が、音も立てずに近寄ってきて、アイスピックの柄でコツンと彼の頭を小突いた。
「お客様にタメ口きくなって、あれほど言ってるだろ」
「すんません」
 悪びれた風もなく彼は笑って頭を軽く下げた。私はそんなやり取りを見ながら、思わず笑みを零した。彼はカウンター奥の厨房から投げかけられた声に一つ返事をすると、そちらの方へと消えていく。
「(そっか。名前、裕介っていうんだ)」
 そんなことを思いながら、マティーニを空にする。まだあどけなさの残る横顔の、柔らかな肌が脳裏にこびり付いていた。

 今夜も、どうせ夫は帰ってこない。一人では広すぎるファミリータイプのマンションは、私にとっては無意味なものが多すぎた。結婚して、3年目の冬を迎えようとしていた。私はテーブルの上に並べられた料理が冷めていくのをただぼんやりと眺めているだけだ。
「つまんない」
 ため息をついてそんな思いを口にしてみれば、今自分が一人ぼっちであるということをまざまざと認識せざるを得ない。その瞬間、肺の中を一気にざわめく何かが満たしていく。
 電話の脇に立てかけられた写真を見た。私の隣で、夫が私の肩を抱いている。結婚式のときの写真だ。あれからもう5年になるのか。私がOLとして働いていた会社で、取引先の会社の社長をしていた夫と知り合った。付き合い始めた頃、彼には妻と4歳になる子供がいた。物腰が柔らかく、スマートで人当たりもいい。そんな夫を誘惑したのは、私のほうだ。結果そういった不倫関係はそう長くも続かず、私はそそくさと彼の妻という座に収まった。
 彼を深く誰よりも愛していたし、彼をそっちのけに彼の持っている豊かな金銭だけを食いつぶす彼の妻など、端から眼中にはなかった。彼と歩む人生。豊かな時間。それを思うだけで、あの頃は幸福に満ち足りていたはずなのに。

 なのに。

 私は切り替えるように吐息を吐き捨てると、立ち上がってエプロンもセーターもスカートも、その中にあるブラジャーもショーツも、何もかも脱ぎ捨てた。そして、鏡を見る。其処には、ただの女が立っていた。乳房の膨らみも、尻の丸みも、全てが女性だった。それでも、三十路を過ぎた私の身体は、十年前とは何かが変わっていた。努力はしている。定期的にジムにもエステにも通っているし、高級な基礎化粧品だって。
 束ねていただけのヘアピンを外せば、緩くウェーブのかかった黒髪がはらりと解けて胸の突起を隠した。

 今日の下着は、白にしよう。百合のような、鳩のような。スカートは膝下丈のやわらかなプリーツスカート。胸元に大きなフリルの付いたVネックのカットソーを合わせる。髪の毛は甘く内側にコテで巻く。香水は、イヴサンローランのベビードル・ラッキーゲーム。若作りと呼ばれるのかもしれないが、女の子でいたいときだってある。甘く魅惑的な香りを纏えば、そんな気分になれるから。襟元と手首にフォックスのファーが付いたAラインの黒いジャケットを羽織って、茶色いロングブーツに足を通す。
 私は金色に染め上げた指先でキーケースを鳴らしながら部屋を出た。何かがきっと埋めてくれる。そんな予感も、期待も、諦めも、何もかも服という名のさなぎの中に隠して。

『俺、あんたに触ってみたい』

 だから。だからこんな陳腐な誘いに乗ってしまったんだ。私の意志じゃない。自ら進んで、此処に来たわけじゃない。ただ、厨房の奥へと消えていく瞬間、裕介は確かに私に向かって、私だけに聞こえる声で、そう呟いたのだから。所詮はただの暇つぶし。それでいい。


 脳の奥がビリビリと痺れる。全身の皮膚が粟立って、その内側では大きな熱いうねりが私自身を吹き飛ばそうと渦巻いている。その中心は下腹部の奥。まるで金色の薔薇だ。
 荒々しげな容姿とは正反対に、裕介は私をまるで恋人を抱くように扱った。その指先はまるで少女のように柔らかで、粘液を纏ったそれで花芯を転がすように撫でられれば、無意識に吐息は乱れる。恥ずかしい。こんな明らかに年下の青年の動作一つ一つに翻弄されるなど。
「……はぁ」
 抑えきれずに声も吐息も、漏れる。硬く閉じた瞳の奥では火花が散っていた。まるで命が尽きるように。雨に濡れた桜が散るように。こうしている間にも、私は女でなくなっていく。悲しいほどに、それが女という生き物なのだ。
「我慢せんでいいよ」
 裕介は首をかしげて笑った。私は口元を右手の甲で隠したまま、軽く睨む。精一杯の抵抗と、もう残り僅かなプライドだ。瞳が潤んでいるのはきっと、この男のせいだ。裕介はその抵抗を目配せ一つで踏みにじると、一瞬だけ止めていた愛撫の手を再び動かし始めた。

 ああ、私が。
 ああ、潤っていく。

 私の中心にぽっかり空いた、最近ではほとんど使われなくなっていた穴が、塞がれる。その瞬間、とてつもない充足感に思わず緩んだ涙腺から透明な涙が毀れて落ちた。
 限られている、私が女でいられる時間。一瞬一瞬細胞が磨り減って、死んでいく命の粒が私の中で溶けていく。私は日に日にただの肉の塊と成り果てていく。それでも私の中心に空いた穴は、それでも私が女だったと証明するだけ。いつか宿主のいなくなったその洞窟は、ただ風を通すだけなんだろう。それが怖い。いつか、私は女であるアイデンティティを自分の肉体に否定される。そうなったら、私はどうやって生きていけばいい。解らない。そうなる日が怖い。

 私は、女なのに。
 貴方が思っている以上に、私は女なんです。

 目を開けてみれば、明るい日差しが窓から差し込んでいた。窓際に腰を下ろして、裕介は外を眺めていた。目が覚めた私に気付いた裕介は、近寄って私に冷たく冷えたミネラルウォーターを差し出した。昨夜の酒と、セックスの疲労で喉がからからだった私は、ありがたくそれを受け取って喉の奥に流し込んだ。溶けた氷と雪のように、筋肉や皮膚や熱くうだっている臓腑に染み込んでいく。心地よい。
「イチゴ食べる?」
 白い陶器の小皿の上に、鮮やかな赤がちょこんと乗っている。それを差し出した裕介が微笑んでいる。一粒手にとってみる。冷たい。こんなに燃えるように赤いのに、不思議だ。口に含んでみる。酸っぱい。その酸っぱさが何故か甘くて、私は気恥ずかしくなってしまった。
「優しいんだね、裕介クン」
「そう?」
 裕介は私の傍らに腰を下ろして、私の髪にそのしなやかな指先を絡めた。その掌の感触を頭に、頬に感じながら私は目を閉じる。こんな時間は何年ぶりだろう。
「セックスの前に優しい男は沢山いるけど、セックスの後に優しい男ってなかなかいないよ……裕介クンの場合は、寧ろセックスの前のほうが素っ気ないかな」
 曝け出したままの肩に、手が添えられる。続いて重なる唇。暖かい、柔らかい、滑らか。私は小さく息を吐いて、その首筋に噛み付きたくなる欲求を飲み込んだのだった。


 裕介は若い。一緒に居る私が切なくなるくらいに。水を弾くだろうその肌も、筋も、表情も。全身の造詣そのものが、瑞々しく凛としている。いつでも余裕と自信に満ち溢れていて、そして柔らかく細めた視線の奥でギラつく獰猛な犬歯が見え隠れしている。
「美佐子サン」
 裕介は、無邪気な笑顔で私の名を呼ぶ。彼と一緒に居る間、私は女でいられる。世界を知らない一人の少女のようにはにかんで、目を閉じていられる。腕を組んで、街を歩く。時には指先を絡めて、空を見上げる。つい昨日まではその枯葉も木も、ただ色褪せていただけだった筈なのに、まるで世界中がショコラでコーティングされているような気分になった。
 裕介は、乱暴な容姿と言動とは相反してとても細やかな心の持ち主だった。私の行動、言動、仕草全てをきちんと見ていた。それが嬉しくて私は彼との逢瀬を前にすると、一つだけ『昨日とは違うもの』を取り入れた。ネックレス、香水、指輪、ルージュ、シャドウ。そんなほんのささやかな変化ですら、彼は目ざとく気付くのだ。

「いいもの見せたるよ」

 私を表に誘い出すとき、裕介は決まってそう言った。映画、絵画、ショッピング、食事、ホテル、セックス。何をするにも、彼は私に綺麗なものを見せてくれる。
 裕介は、何も求めない。ウィンドウショッピングに出かけても、彼は気に入ったものをじっと眺めているだけだ。山羊の革のジャケット。リーバイスのジーンズ。ゲッタグリップのワインブーツ。値段に関わらず、彼は彼の心が求めるものを見る。私はそんな裕介でいて欲しかった。そして、それに囲まれていて欲しかった。
「欲しいんでしょう?買ってあげる」
「ありがとう」
 謙遜は言わない。否定もしない。その代わりに要求もしない。裕介はそういう男だった。そういう裕介に、私は心酔していたのかもしれない。馬鹿だった。今思えば、全て孤独と退屈で麻痺してしまった私の心が引き起こした幻想だったのに。
 それでもあの肌も、そこから湧き上がる熱も、匂いも、全てが煌いていた。私にとっては、それが、それだけが私を救ってくれたのだと。


 テーブルの上に置かれた薄っぺらい紙には、『守屋洋平』と書かれていた。その隣には、ご丁寧にも朱色の判子まで押されてある。その向こう側で夫は、床に視線を投げかけたまま煙草に火をつけた。
「なにこれ」
「いちいち言わなくても解ってるだろう」
 溜息混じりに紫煙を吐き出す。ガラスの灰皿の上に、白っぽい灰がはらはらと落ちる。私はその光景をぼんやりと眺めていた。そうだ。この灰皿もブランド物で、結婚したての頃のイタリア旅行中、一緒に買いにいったんだった。
「幸い僕たちには子供もいないことだし、もう潮時なんじゃないか」
「作らなかったのは貴方のほうじゃない。仕事、仕事、って言ってろくに帰ってきもしないで、よくそんなことが言えるわね」
 一瞬、夫の目が私を見た。眼鏡の奥からでも解る。酷く冷えた、底の見えない目だった。ああ、この人は、こんな眼が出来る男だったのか。
 夫は鞄の中からなにやら手紙の束のようなものを取り出すと、私の前に叩き付けた。
「確かになかなか家に戻れなかった僕が原因かもしれない。でも君だって僕がいない間、随分楽しんだんだろう?それでいいじゃないか」
 この内訳の中を見られれば、裕介の存在は自ずと明白なものになるのだろう。立ち上がった夫は、私に近づいて私の長い髪に指を絡ませた。5年前のあの頃のように。指先で持ち上げるように。
「化粧が変わったね、美佐子。髪も、服も、香水も。ちょっと見ない間に、君は変わった。何もかも。吐き気がするよ」
 貴方も……なんて。たった一言だけの単語すら口に出来なかった。確かに私は変わりすぎていた。夫ではない、別の男の色に、染まりきっていたから。


 裕介が消えた。
 離婚をしたことと小さなアパートに引っ越したことを裕介に伝えた数日後のことだった。突然彼は店を辞め、私の前から姿を消したのだ。携帯電話も繋がらない。メールはアドレスを変更したのか、届くことすらない。彼に預けていたカードは確かに使用されていた。それだけが、私と彼を繋ぐ糸口だった。だけれどそれも、上限を超えた瞬間ぴたりと止んだ。
 私はこれまで溜め込んできた貯金を、数ヶ月のうちに全て失っていた。夫と結婚して裕福だった私の貯金は、普通の主婦のそれより遥かに上だったはずなのに、あれだけあった数字もなくなるのは一瞬。いっそ清々しいくらいだ。
 もう、私には何も残っていない。エステやジムに通うことも、基礎化粧品に拘ることも、できない。長かったようで短かった冬は終わりを告げて、桜の木にはぽつぽつと花が咲き始めている。
 クローゼットを開けてみた。其処には、あの日、裕介に会うために買い揃えた服が並んでいた。私はその中から、一番お気に入りの白いワンピースを選ぶ。このワンピースが愛しい人の血で染まると思うと、背筋が心地よく震えた。


 ミュールの細いヒールが、カツカツとアスファルトを踏む。ジャケットの裾が春風にはためいている。私は金色に染め上げた指先で、掌の中の鍵を弄んだ。鮮やかに縫ったルージュの端が持ち上がる。歌でも歌えそうな気分だ。だって、こんなにもいい天気なんだもの。
 歩きながら想像する。小さなアパートの前。ドアスコープのレンズ。鍵穴に鍵を挿す。捻る。響く金属音。ドアを開ければ、奥に見えるベッド。貴方は眠っている。その若くしなやかな四肢を投げ出して。私は静かに近づく。ハンドバッグの中から取り出したそれは真昼の光を浴びて鈍く輝く。両手で持つ。そして、貴方の身体めがけて振り下ろすのだ。何度も、何度も。


 完璧だと思っていた。
 何もかもが。
 なのにそれが壊れてしまうなんて。
 壊してしまうなんて。
 小さなノイズと小さな染み。
 そんな余分なものがあるから、何時まで経っても白は白でいられない。
 だから、貴方を殺すの。
 鮮やかな指先で私を壊した、貴方を殺すの。
 今度こそ、完璧に。
 そうしたらきっと、私は鳩になれる。

 真っ白な、鳩に。


「兵頭!」
 突如響いた野太い男の声に、私の足が止まる。小さな運送会社の倉庫だった。作業着に身を包んだ男が、その声に反応して顔を上げた。汗を弾く、若い肌だった。ほんの少し日に焼けてはいたけれども。
 休憩を促されて、彼は表へ歩き出す。道路の反対車線から凝視している私になど、気付きもせずに。彼の歩く先には、ワンピースを着た若い女が立っていた。ほとんど目立たないが、確かに膨らんでいるその腹を、彼は撫でた。笑う。白い歯が見えた。その瞬間、私の世界は歪んだ。歪んで、歪んで、動いて、滲んで、何も見えない。
 私は踵を返すと、走り出していた。その瞬間、彼がこっちを見たような気がしたけれどそれ以上見ている勇気なんて私にはなかった。


「美佐子サン!」
 どれくらい走ったのだろう。その声で、私の足は再び止まった。振り返る。息を乱した裕介も、その足を止めた。
「美佐子サン、俺……」
「なんで追ってくるのよ!」
 酷い顔をしている、と自分でも解る。裕介が憎い。憎くてしょうがない。だから、殺してやろうと思っていたのに。
「馬鹿にしないでよ!冗談じゃないわよ!貴方の為にカード使って、散々貢いで、この結果で……夫には離婚されるし、お金もないし、貴方はいなくなるし!これ以上惨めな思いさせないでよぉ」
 そう叫んでみても、裕介はただ申し訳なさそうに眉根を寄せるだけだ。
「ごめんなさい」
 そう言って、私を見る。やめて、見ないで。貴方は酷い男なんだから。私を騙した酷い男なんだから。どうしてそんなに泣きそうな顔をしているの。
 泣きたいのは、私のほうよ……!
 私はバッグの中に手を入れた。すぐさま固い感触が掌に伝わる。取り出した包丁に、裕介は驚いたように眼を丸くした。じりっと、後ずさる。
「俺を、刺しに来たん?」
 それ以外に、何があるというのだろう。それしかないと、判っているはずなのに。
「彼女、何ヶ月なの?」
 そう問いかけると、戸惑うような沈黙が流れた。波の音が聞こえる。海が近いのかもしれない。そしてこの人気のない公園で聞こえるのは、私と裕介の息遣い。ただそれだけだ。裕介は私から視線を逸らすと、「4ヶ月」と短く応えた。私と関係を持っている間にできた子だということだ。
 口の中に血の味を感じる。唇を噛んでいたのだ。私の、ではない。血を流しているのは、裕介だ。その直後、刃物が地面に落ちる音が響く。
 幾度となく愛撫を繰り返した、この柔らかな唇は少し荒れていた。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。私を何度も絶頂に追い込んだ指先も、少しだけ硬くなり始めている。裕介はいつからこの仕事をしていたんだろう。
「美佐子サン」
 唇を離すと、裕介が私の名を呼んだ。あの頃のように、無邪気に甘い声で。
「俺、金が要んねん」
 彼女の出産のため?聞かずとも、その応えは明白だった。私は財布を取り出すと、万札を数枚彼に突きつけた。財布の中身はこれで完全に空になってしまったが、そんなことはどうでもよかった。こんな男、殺す気にもならない。裕介の瞳の奥からは、昔のような犬歯がなくなってしまっていたから。
「ありがとう」
 裕介はそう言うと、私の身体を抱き寄せた。その背中に手を回す。しなやかだったそのラインは、筋肉のついた身体に変わりつつあった。
 貴方は、私が思っている以上に『男』だったんだね。
 身体を離す。名残惜しさが糸を引く。けれどももう私たちは肉体を交わすことも出来ない。私は包丁を拾い上げると、ハンドバッグの中にしまった。

 裕介が、私を見ている。その視線を感じながら、私は歩き出す。私は泣きながら、海沿いへの道を進んでいく。

 本当は、初めて一緒に夜を明かしたあの日に気付いていた。
 裕介は、初めから私になどなんの興味もなかった。ただ、私のお金が欲しかっただけ。あの凶暴な光の意味するところなんて、たった一つだったのに。
 それでも、悪人になりきれない彼が、愛おしくて仕方なかった。途中で諦めてくれるだろう、なんて打算もあった。それだけ私は与えているのだと、どこかで奢っていたから。
 それでも、あの犬歯を取り除いたのは私ではなかったんだね。

 もう振り返っても、裕介の姿は見えない。ポケットの中で何かの感触に気付いて、私は探ってみた。
 金色の薔薇を模した、ネックレス。
 いつか私が言ったこと。「薔薇が好きだ」と。
 覚えていてくれたんだね。馬鹿な人だね。そして、不器用な人だね。

 裕介。
 私の部屋の薔薇は、もう枯れちゃったんだよ。
 裕介。
 何故今になって、私の心に水を差すの。
 裕介。
 枯れない薔薇なんて、私には重過ぎるよ。

 心臓を掴まれたまま動けない私は、ただその場にしゃがみ込んで大声で泣くことしかできなかった。

 子供のように。
 無邪気な、無邪気な、子供のように。


END