午後の切り抜き

 ベッドを占領している彼女の寝顔を見つめながら、あたしは紫煙をゆっくりと吐き出した。肺を曇らせていくその甘さに、頭の芯がぼやけるのがわかった。
 昨夜はあんなに荒れて乱れていたのに、そんなことを何も覚えていないように眠る彼女は、まるで生まれたての赤ん坊のようだと思う。眠るしかない、眠るしか。そんな感覚にも近いのかもしれないけれど、それが何故だか癪に障った。
 水分を含んで柔らかくなっている肌に、乳液を染み込ませる。じっくりと。じっくりと。吸い込んで、栄養を取り込むように噛み砕いて吸収する。女の身体とは貪欲だ。
 巻いていただけのバスタオルを剥ぎ取ると、あたしは全裸のまま化粧品を取り出した。ファンデーションをむらなく塗り、毛穴を埋め込んでいく。まるでパテで上から凸凹を隠すみたいに。眉毛をかいて、アイライナーだけを引く。アイシャドウは入れない。誰に見せるわけでもないから、そこまで気を使う必要もないだろう。
 出かける準備をしたのは、ただ単純に此処に居たくなかったからなのか。何かに追われるように服を着るあたしの肋骨の向こう側では、何かが『早く、早く』と急かしていた。

 ああ、待ってよ。
 追いつかない。

 ジーンズを履いて、ダウンジャケットを羽織ったあたしは、バタバタと部屋を出て行った。鍵は掛けない。必要ないだろうから。
 彼女は眠っている。
 この部屋で、眠っているから。



 持ってきたのは、煙草と財布だけ。携帯電話を持ってこなかったことが一瞬だけ気にかかったが、おそらく持って来たくなかったのだろうと自分の中で勝手に結論付けた。
 外に出て、日の当たる路地を歩きながら、あたしは安っぽい財布の中身を確認した。1,000円しか入っていない。下ろさないと。最初から直ぐに帰るつもりはなかった。一人の時間が欲しかった。何かが急かしている状況下で、気分だけがいい意味ではなく高揚していく。凶暴に。
 あたしは近くにある銀行に入ると、すぐさま5,000円を下ろした。これで何が出来るだろう。それは期待ではなく、ただの焦りだった。なにかしないと、なにかしないと。そのまま近くのショッピングモールに足を運んだあたしは、エスカレーターで上の階を目指した。途中にあるHMVで洋楽ロックのアルバムを一枚購入した。まるでからからに乾いた観葉植物が、久々に与えられた水を必死で取り込んでいく様子にも似ているのかもしれない。そんな衝動に駆られたまま。
「(駄目だ。止まってはいけない。止まっては。)」
 焦っていた、酷く。そうしないと、自分の胸の奥で捩れた一本の棒がその回転の激しさを増すだろうから。自分の脇をすり抜けていく、人、人、人。胸の奥がムカついてしょうがない。目障りだ。結局みんな消えるのに、何故集う。何故偽物の愛情を貪る?くだらない。そんなことを考えてしまいそうで、それが酷く怖くてあたしは焦っていた。考えてはいけない。

 あたしはそのままエスカレーターを上って、紀伊国屋へと足を向けた。真っ直ぐに現代小説の棚に駆け込み、酷く落ち着かない様子で並ぶ書籍を物色する。色とりどりに装丁されたタイトルが視覚を刺激する。気持ち悪い。どれもこれもが激しい自己主張をしていて、色んな顔が並んでいる。隙間なく犇いて、蠢いている。気持ち悪い。こんな世界に、あたしは憧れているのだ。悔しいけれど。
 そこで一冊の短編小説を購入したあたしは、渋々エスカレーターを降りる。途中、いつも立ち寄るカフェを見つけてそそくさと中に入った。帰りたくなかったから。
 紅茶を注文して、先ほど買ってきた小説を開く。それほど読みたかったわけではなかったのだけれど、無心になれる瞬間がどうしても必要だった。
 暖かいミルクティを口に運びながら、ページを捲っていく。確かに集中して読んでいるのに、周りの様子を無意識に観察している自分がいた。今は活字だけに神経を尖らせていたいのに、根付いた習慣はそうそう払拭されない。
 神経の動きに連動するように、胸の奥でコーヒーの上澄みみたいな歪んだマーブルが渦を巻いている。
「……っ!」
 眉間に詩話が寄る。タダでさえ悪い目つきがどんどん悪くなっているのが解る。駄目だ駄目だ。こんな顔他人が見たら引くのが目に見えている。
 気分が悪くないように装うために、目を大きく開いてみる。これで多少は違うはず。見られているかどうかすら解らない赤の他人のために気を使って演技をしている自分を客観視してみれば、あまりにも滑稽で嘲笑ばかりが溢れてきた。
 子供の叫び声が耳障りだ。鬱陶しい。
「(……死ねっ!みんな死ね!この世から消えてなくなれ!)」
 心の中でそんなことを呟いて、顔では上機嫌を装っている。この摩擦が人を壊すのだろうか。だけどあたしはまだ正常だ。壊れてなんかいない。壊れてなんか。



 気付けば一冊本を読み終えていた。
 どれだけの時間が経過しているかなんてわからない。
 ただ、『帰らなきゃ』という概念だけがポンと浮かび上がってきた。
 帰って、彼女の世話をしないと。
 何もない顔と様子を作って、彼女のケアをしないと。
 今、あの子は傷ついているのだから。
 今、あの子は疲れているのだから。

 こんな酷い顔、見せられないから。

END