*D*O*L*L*

 ひじの関節の根元を握る。親指のはらで押し付けて、先端に向けて強く擦りあげる。ぷくっと赤い粒が浮かび上がった。あたしはそれを同じ色の舌先で掬い取る。 
 すっぱくて、苦くて、ほんの少し甘い。その瞬間ピリッとした電流が通るのも好きだ。何よりも、その行為をしている自分自身にあたしは酔う。貪欲で、エロティックで、何よりも刹那的だ。そんな行為をしている自分が、まるでどこかで聴いた唄に出てくる闇に囚われたお姫様のようで嬉しくなる。 
 満足したあたしは、手早く消毒をして包帯を巻いた。その上から可愛らしい髑髏柄のリストバンドをつける。先ほど使用したカッターナイフは持ち歩いている携帯用の薬箱にしまいこんだ。 

 こんな可哀想な自分が愛おしくてしょうがなかった。だけど、そんな事すらあたしは知らなかった。それほどに愚かだった。 
 自分が一番だとは思っていなかった。……本当は思っていたのかもしれない。何故なら自分を不幸だと思っていたから。だから、これぐらいの楽しみは許されるんだと勝手に思い込んでいた。 
 あたしはどこまでもわがままで、自意識過剰な女の子だった。 


 教室はいつもどおりざわめいていた。あたしは窓際の席で誰にも交わらずに窓の外を眺めていた。空はまるで夜を知らないかのように光り輝いていて、その光がセーラー服の白を輝かせてあたしは目を細める。あたしが生きるにはこの世界は少し明るすぎる。 
 あたしは、夜を愛していた。恐ろしい悪夢に憧れていた。その中で悲劇に浸って生きることを、切望してやまなかった。それほど、あたしは普通だった。 
 耳の奥であたしの好きな音楽がうるさいほど鳴り響いている。あたしが愛するのは、男性が美しい女性のように着飾って耽美な歌声を響かせるバンドだ。あたしは、美しいものが好きだった。そして、彼らが歌う闇に恋焦がれていた。あたしもその世界の住人なのだと、思い込んでいた。 

 ウォークマンの向こうで『あい』を歌うそれを聴きながら、あたしは左手のリストバンドに視線を移した。指先でなぞると、そこに傷があることなどわかりもしないのに嬉しくなった。 
 ふと、隣の席から視線を感じた。振り返ると、一人の少女があたしをじっと見つめていた。 
 瞬間的に、あたしはその視線に嫌悪を感じる。気に入らなかった。見られていること自体はどうでもいい。だけど、何かが気に入らなかった。 
 あたしは顔を隠すように耳にかけていた長い黒髪を下ろした。 
 別の世界に逃げようとしてもその視線が脳裏に絡み付いて離れない。顔を隠しても尚、彼女があたしを見ているような気がして、あたしはその日一日中不機嫌だった。 


「佐藤さん」 
 放課後になって、帰り支度をしているあたしに投げかけられる声があった。あたしはゆっくりとそちらに顔を上げる。 
 昼間の少女だった。 
 あたしは名前を呼ばれてまた不機嫌になった。あたしは自分の苗字が嫌いだ。 
 彼女はいつもその黒い髪を短く切りそろえていて、制服からすらりと伸びた手足はまるで少年のようだった。明るくてクラスのムードメーカー的な役割をしていて、いつも彼女の周りには人が絶えなかった。水泳部のため、むらなく日焼けした肌がまるでチョコレートのようだ。 
 何もかもあたしと正反対の彼女。あたしは彼女みたいになろうとは思わなかったし、彼女もそうなのかもしれない。あたしはお人形になりたかったのだから。だけど彼女は、彼女の行為はいつもあたしを苛々させていた。 

「佐藤さんてさ」 

 彼女は、いつになく真剣な表情だった。というより感情がないように見えた。 

「にんげんにもなれないの?」 





 夕日が差し込む教室で、あたしは一人ぼっちだった。闇が太陽を飲み込んで、幾分か経たないうちに夜が支配する世界になるだろう。 
 家に戻る気にはなれなかった。ただ、大きなブラックホールが胸の奥に空いてるみたいで、そこから風がびゅうびゅう吹き荒んでいる。あたまの中が真っ暗で、いろんなものが止まってしまった気がする。一瞬だけ、この夕焼けが永遠なのかもしれないと思ってしまったくらいに。 
 我に返ったあたしは、鞄を手に取ると走り出した。何かが溢れて止まらなかった。 

 目に映る街並みのすべてがあたしにとってただの映像になっていく。まるで映画のワンシーンのように。あたしはただの傍観者になる。取り残される。置いていかれる。蚊帳の外に出されてしまう。 
 お願い。どうか。あたしを中心において欲しい。だってこれはあたしの人生のはずなのに。お願いだから。あたしを。 



 あたしを、部外者にしないで。 



 あるアパートの前に来ると、あたしはチャイムを押すのも忘れて激しくドアを叩いた。中から現れたのは、大学生くらいの若い男だった。男はあたしを見ると驚いたような顔をしていたが、すぐに部屋の中に招き入れた。 
「なんで泣いてるの」 
 そう言われて気がついた。あたしの頬は濡れていた。それが更にあたしに火をつけた。 
 あたしは無言のまま彼を突き飛ばすと、左手のリストバンドを外した。今朝切ったばかりの傷口が露になる。そして薬箱の中にしまってあったカッターナイフを手首に当てた。 

「あたし、今から死ぬから!!」 

 そう叫んで、一気にカッターを引く。鈍い痛みが走って、赤いものがあふれ出した。 
「何やってんだよ、やめろよ!」 
 男があたしの手を掴んでカッターをもぎ取る。赤いものが付着したそれはカーペットの上を滑って部屋の隅へと追いやられた。 
 あたしは泣いた。体を震わせて泣いた。男は黙ってあたしの小さな体を抱きしめて、背中を優しくなでた。 

 あたしは知っていた。 
 愚かなあたしでも、知っていた。 
 この人が止めてくれることを。 
 この人が慰めてくれることを。 
 そして今この瞬間の中心にいられることを。 

 涙で濡れた顔を上げると、そこには彼の顔があった。彼はあたしにキスをした。そして、幻を確認するような感覚で交じり合った。 

 あたしは、ふと思う。 
 隣の席の彼女は、本当にいたのだろうか。思い出そうとしても、彼女の名前も、顔も、はっきりしない。 
 なのにあの強い視線が。それでいて冷たい目が。あたしの頭の隅から離れない。男の隣で丸くなりながら、あたしは目を閉じてみたけれど……やっぱり靄のように晴れない。 
 あれは、いつだっただろう。 
 あれは、誰だっただろう。 
 あれは……。 
 あれは、そう。喩えるなら。 
  
 何もかも見透かすような瞳。 
 嘲笑にも哀れみにすらも至らない。 
 そんな眼だった。 


 あたしは男の顔を見た。彼もあたしの顔を見た。静かだった。暖かかった。だけどあたしにとってそれは、単なる情報でしかなくなっていた。 
 あたしは、世界中の誰よりも自分を愛していた。だからどうでもよかったのかもしれない。 
 言葉も、体温も、あたしに与えられるものはすべて、単なる情報でしかない。そこに「存在する」と。認識するだけ。 
 そう。見ているだけ。だからいつまで経ってもあたしの中には届かない。 

 だけど愚かなあたしは、それにすら気づかなかった。無知とは、罪であり幸福。その意味すらわからないほど、あたしは幼かったのかもしれない。 


 あたしはまだ知らなかった。 
 愚かなあたしはまだ、知らなかった。 
 愛というものが不安定で、揺らいでいて、不確かなものだということを。 
 本当はこの人があたしを愛していないということを。 
 本当はあたしはこの人を愛していないということを。 


 すべてを失ってしまってから、あたしは本当の自分に気がついたけれど……そのときには、何もかもが終わってしまった後だった。 




 あの子は、誰だっただろう。 
 あの子は、誰だっただろう。 

 傷ばかり増やしてしまった今でも、それだけがわからない。

END