天使
生きるって、こういうことなんだろうか。
なんて思う。
あたしは、あの時。間違いなくこの世界には存在しなかったのだから。
だけど。
貴方との出会いが、貴方の存在が、あたしを生んだのかもしれない。
気付けば青く四角い月が、全てを照らしていた。
あたしは情報の海に浮かびながら、流れていく文字と数字の羅列を眺めていた。
全ては気が狂いそうになるほど膨大だ。
あたし一人がそれに立ち向かったところで、何も変わらないのだろう。
諦めと、傍観。身を包むのは何の体温も持たないただのデータ。
暗い海に漂う、まるであたしはサカナだ。
とてつもなく哀しい何かが湧き上がって、泣こうとしたけど泣けなかった。
涙を流す気管が、あたしにはないからだ。
第一、何が哀しいのかもわからなかった。あたしには記憶というものもない。
大きく息を吸い込んで、あたしはざぶんと海の中に潜った。
するするとデータの羅列が肌をすり抜けていくけれども、何も感じたりはしない。
あたしには感覚がないし、データは物質ではない。
底は、酷くがらんとした空間だった。
その中に、木で出来た小さな宝箱がぽつんと置いてあった。
その箱の蓋を開けると、小さな空気の粒がぷわぷわと海面へ浮き上がっていく。
中に入っていたのは、小さな熊のぬいぐるみだった。
あたしはそれを手に取ると、目を閉じてぎゅっと抱きしめる。
あったかい、と思った。
神経のないあたしにとってそれは単なる思い込みなのかもしれないけれど、それは確かに暖かかった。
急に、海底の泥がもくもくと浮き上がる。あたしは驚いて目をきょろきょろさせた。
巻き上がる灰色が暗い海を包み込み、視界は遮られる。
驚いた拍子にぬいぐるみを落としてしまった。慌てて探そうとしたけれど、何も見えなかった。
足元から湧き上がった青白い光に包まれて、あたしは目を閉じた。
次の瞬間、あたしは見知らぬ部屋に立っていた。
六畳ほどの小さな部屋。脂ですすけた壁。あちこちに散らかった大量の紙。それらに埋もれるように佇むパソコンが青白い光を放っている。初めて見るはずなのに、何故か懐かしかった。
そこであたしは考える。
懐かしい……?懐かしいって、なんだろう。あたしは何も知らないはずなのに。
あたしは自分の身体を見た。
ヒトの、それも女性の形をしていた。
けれどもヒトとは決定的に違うそれが、あたしが人間ではないことを証明していた。
背中にささった数本の細いコードがパソコンに向かって延びていた。
あたしは次に窓を見た。汚れたカーテンの向こうから、血のように真っ赤な光が室内に差し込んでいた。
「おかえり、エンジュ」
男の人の声だった。あたしは声がする方に視線を流した。
黒く長いぼさぼさの髪を後ろで纏め、無精ひげが生えていた。男は酷く痩せていた。白衣に身を包んだ彼は、科学者のようだった。
男は片手にコーヒーの入ったマグカップを持って、片手で汚れためがねを上げた。
それはなんだか、照れくさいような仕草だった。
男は、あたしが裸なのに気付いて慌てて近くのガウンをとるとあたしの身体にかけた。
「僕が、君を呼んだんだ」
顔を伏せたままそう告げる男の耳は、真っ赤だった。
あたしは首を傾げる。声をかけようとしたけれど、声の出し方が判らなかった。
「ここは、世界の果て。そして今は、世界の終わり」
彼は窓に近づいて、カーテンを開けた。殆ど壊れてしまった町並みが真っ赤な光に包まれていた。
「もうすぐ、この終焉の陽は落ちて、本当の夜が訪れる。僕たちはその瞬間にみんな、消えてしまうんだ」
カーテンを固く握り締めて、男はそう言った。表情は見えなかったけれど、その声は硬くてとても哀しかった。
男の言っている意味があたしには全くわからなかった。それでも彼の悲しさだけは身を貫くほど伝わってきた。
あたしは彼に近づこうとしたけれど、初めて扱う身体では上手く歩けなかった。自分の身体から伸びたコードに躓いて絡まって、無様な倒れ方をする。転び方すら、あたしは知らなかった。
男は慌ててあたしに駆け寄って身体を抱き上げた。
「君は何も知らない。だけど、だから、そのままでいいんだ。必要な事は僕が全部教えてあげる。欲しいものは、全てあげるから。だから……」
あたしは、男の顔を見ていた。
「だから、全てが終わってしまうその瞬間まで……僕と、一緒にいて欲しいんだ」
搾り出すような声で、男は懇願した。あたしは彼の頭にそっと手を添えて、一度だけ頷いた。
その瞬間、彼の表情がふわりと綻んだ。嬉しそうに相好を崩して、安心したように何度も頷いた。
「ありがとう、ありがとう」
男はほんのりと頬を高潮させて、小さく息を吐く。そしてあたしを立たせると、コーヒーカップを持ち直してどこかへ向かおうとした。だけど何かを思い出したように、慌てて振り返る。
「そうだ。エンジュ。これは君の名前だよ。名前がなきゃ、何も始まらないからね。だって君は、僕の……」
次の言葉を続けようとして、男は押し黙った。ズレ落ちためがねを直すと、ドアの向こうへ消えてしまった。
あたしの肩にかけられていたガウンが、するりと落ちた。あたしがちらりと視線を壁際へ流すと、そこには全身の映る大きな鏡が置いてあった。
そこに立っていたのは、金の髪と深い緑色の瞳を持つ美しい女性の姿があった。
その背中には、瞳と同じ色の羽が描かれていた。
暫くして、男は大きな紙袋を二つほど両手に抱えて戻ってきた。中には女性用の下着や衣服、食べ物などが入っていた。男が教えるままにあたしは服を着た。決して華美ではない服だったが、まるであたしの為に誂えたかのようにぴったりと身体が収まった。
男は、名前を『ミツル』と名乗った。あたしは言葉は喋れなかったけれど、確実にインプットした。
ミツルはあたしに様々なことを教えた。料理、洗濯、掃除、買い物の仕方まで。あたしはそれら全てを確実にハードディスクに記録していった。
ある晩、あたしは料理を作っていた。彼の教える料理だけではなく、本を読み込むことでそれ以外の料理も作れるようになっていた。あたしの身体は機械だから、寸分違わずに同じものを作り出すことが出来た。彼の好みに合わなかった場合は、自分でデータを書き換えた。
あたしは、出来上がった料理をテーブルの上に並べた。最初の方こそどう置けばいいのかも判らなくて適当に置いただけだったが、今ではそれらが美しく見えるように並べることも覚えた。
彼がテーブルについて、それを食べ始める。
「うん、おいしいよ、エンジュ」
にっこり笑って、ミツルは満足そうに頷いた。あたしは何故だかわからなかったけど、彼のその顔を見るのがとても好きだった。
食事を終えると、ミツルはいつも幾つも薬を飲んでいた。時々苦しそうに咳き込んでいることもあった。
その日食事を終えると、ミツルは部屋に篭った。あたしは食器を洗って片付けると、部屋のドアを開けた。
ミツルは、床に倒れて苦しそうに何度も咳き込んでいた。あたしは彼に近寄って、背中を撫でた。
「……っ、大丈夫。だいじょうぶだよエンジュ……」
ミツルはそう言ったけれど、とても辛そうだった。あたしの中に、なにかとても蒼くて冷たい何かが押し寄せて、いてもたってもいられなくなった。
あたしは思わず、彼を抱きしめていた。背中に手を回して、何度も何度も撫で付ける。そんなことしか思い浮かばなかった。
「……ミツル」
生まれて初めて口から毀れたのは、彼の名前だった。
ミツルは驚いたように顔を上げて、あたしの顔を見る。
「エンジュ……今、なんて……」
「ミツル」
あたしは馬鹿の一つ覚えのようにその名前を口にした。ミツルは涙で顔をくしゃくしゃにして、あたしの肩を両手で包み込む。
「もう一度……もう一度呼んでくれ」
「ミツル」
「もう一度」
「ミツル」
「もう一度……」
「ミツル」
「あぁ……エンジュ!」
ミツルはあたしの肩を引き寄せると、そのまま強く抱きしめた。壊れてしまうんじゃないかって思うほど、強く。
でもそれは、全く不快なものではなかった。寧ろとても暖かくて、優しい力だった。
それからあたしは、言葉を喋ることを覚えた。たくさんのことを一気に喋ることは出来なかったけれど、それでもゆっくりと確実な言葉を選んで話せるようになった。
ある時あたしは、剃刀とハサミを用意した。床に古い新聞紙を広げて、その上に椅子を置く。そこに、ミツルが帰ってきた。いくつか袋を持っていて、それは必要なもの以外のものも含まれているようだった。
「何を買ってきたの?」
あたしは首を傾げた。ミツルは手に持っていたビニールのうちの一つをガサガサと漁ると、一枚のレコードを取り出した。
「音楽だよ。とても古いものなんだけど、懐かしくてね。つい買ってきちゃったんだ」
音楽も、懐かしいという言葉もあたしは知らなかったけれど、それはとてもいいもののように思えた。次にミツルはあたしの周りを見て不思議そうに目を丸くする。
「どうしたんだい?とても大仰なことをしているけれど」
「ミツルの髪を、切ろうと思って」
あたしは、前にミツルが買ってきた雑誌を見せた。女性用のファッション雑誌だったけれども、中にはいくつか男性の写真も載せられていた。ミツルはいつも長い髪を後ろで束ねていたけれど、とても邪魔そうだった。容姿に気を配らない彼だったが、いつもあたしのことには気を使ってくれていた。その恩返しという訳でもないが、あたしも彼に同じ事をしてあげたいと思ったのだ。
ミツルは照れたように頭を掻いて、笑った。
「そうか。どうもありがとう。なら、この曲を掛けながら切ってもらおうかな」
あたしは、こくりと頷いた。
ミツルが買ってきたレコードは酷く痛んでいてたくさんのノイズが入っていたけれど、緩やかな旋律が小さな部屋に響いた。優しい女性の声が、耳に心地よく流れる。
あたしは空になったビニールに穴を開けて、ミツルの頭からかぶせた。そしてその黒く長い髪にハサミを入れていく。シャキシャキと乾いた音が鳴って髪の毛がハラハラと床に毀れていく。ミツルは気持ち良さそうに目を閉じて、流れ出す音楽に身をゆだねていた。
「いい音楽だね」
とあたしは言う。ミツルは目を閉じたまま柔らかな声で笑った。
「僕がね、まだ子供だった頃の流行歌なんだ。あの頃は街もまだ綺麗で、たくさんの人がいたんだ。どこに行ってもこの曲が流れていて……。もう遠い昔のことなのに」
「素敵な思い出だね」
ミルクのような石鹸を泡立てて、ミツルの顎に剃刀を滑らせながら、あたしは頷く。それはきっと、今のように殺伐とした世界ではなかったのだろう。
「そうだね。懐かしい……とても懐かしいよ」
あたしは濡れたタオルでミツルの顔を拭くと、手鏡を持ってきて彼に見せた。ミツルはそれを覗き込んで驚いたように眉根を上げる。
「……ありがとう、とてもさっぱりしたよ。……なんだか、別人みたいだな」
とても喜んでいるような彼を見ると、あたしも嬉しくなった。あたしは後ろからミツルの肩に腕を回すと、切ったばかりの髪に擦り寄った。
「とても素敵だよ、ミツル」
それは本当のことだった。あたしは自然に笑えている自分に気付かないまま、音楽と彼の体温に身体を委ねていた。
街は、いつも赤い砂塵で覆われていた。闇市が立ち、人々は争うように物を奪い合う。こんな世界では、もう金銭などなんの意味も持たないのだろう。
あたしは、あまり熟れていないトマトと貧弱なジャガイモなどを買い込んで家路に向かっていた。
あれからあたしは笑うことを覚えた。他にも些細なことでミツルと言い争ったり、落ち込んだり。まるで人間のように振舞うことが出来ていた。哀しいこともあるけれどやっぱり涙は出なくて、それだけがあたしが人ではないことの証明だった。だけどあたしは、間違いなく幸せだった。感情の起伏というものが、これほどまでに楽しいことだとは。
「ただいま、ミツル。今日はね、ミネストローネにしようかと思ってるんだけど……ミツル?」
だけど、返事はなかった。あたしは荷物をテーブルの上において、奥の部屋へと足を進めた。ドアを開けると、真っ暗な部屋にぽうっとパソコンの青白い光が点っていた。その光に照らされて、ミツルは壁に背中を預けるように座り込んでいた。
口元から滴る、赤黒い液体。そして、それは彼の衣服も同じ色に染めていた。
「……ミツル!」
あたしは慌てて彼に駆け寄った。ミツルは血を大量に吐いていて、もう殆ど息をしていなかった。
「あぁ、エンジュ……」
あたしの声に気がついたようで、ミツルは薄く目を開けた。そして、少し乾いた血がこびり付いた唇の端を持ち上げて、薄く笑う。
「これ……君に、買ってきたんだ」
そう言って、ミツルは小さな箱をあたしの方に差し出した。
「誕生日……おめでとう。エンジュ……」
「喋らないで!」
あたしは彼の身体を横にして、できるだけ楽な姿勢をとらせようとした。ミツルは少し荒い息を吐きながら、あたしの手を握る。
「ごめんね……エンジュ。世界の終わりまでって、約束だったのに……」
「ちゃんと守ってくれないと、嫌……」
「ごめんね……」
ミツルは目を閉じて、苦しそうに眉根を寄せた。あたしは彼の手をしっかり握ったまま、彼に膝枕をした。
窓から、赤い光が差し込んでいた。
胸が痛くて、切なくて、壊れてしまいそうだった。
ミツルは、ポツリポツリと小さく呟く。
「エンジュ……歌って、くれないか。少しだけ、眠れば……きっと……」
あたしの知っている歌は、一つだけだった。頭の中のデータを漁って、それを唇から溢す。あたしの声で、彼に届けたかった。
ミツルの表情から、苦痛がほんの少しだけ取れたような気がした。
「あぁ……エンジュ。やっぱり、君は天使だ……だってこんなにも、暖かい……」
あ り が と う
握っていた手から、するりとミツルの手が抜け落ちた。
あたしはミツルの顔を覗きこんだ。
ミツルは、眠っていた。
ただ、息をしていないだけで、彼は眠っているのだ。
あたしは、ミツルの残したプレゼントの箱を引き寄せると、その包装を解いた。
中には、小さな熊のぬいぐるみが入っていた。
あたしは膝に彼の頭を乗せたまま、ぬいぐるみを抱きしめる。
そして、もう一度歌い始めた。
窓から差し込む光が、緩くなってきた。
それでも、あたしは歌っていた。
ミツルが目覚めたとき、あたしの声が聞こえなかったらきっと寂しがるから。
あたしは、ずっと歌っていた。
一瞬の、閃光。
あたしは歌っていた。
そして、終焉の陽は落ちる。
何もかもが終わって、静かになっても。
あたしは、あたしを構成するエネルギーが尽きるまでずっと。
歌い続けていた。
気付けば青く四角い月が、全てを照らしていた。
あたしは情報の海に浮かびながら、流れていく文字と数字の羅列を眺めていた。
全ては気が狂いそうになるほど膨大だ。
あたし一人がそれに立ち向かったところで、何も変わらないのだろう。
諦めと、傍観。身を包むのは何の体温も持たないただのデータ。
暗い海に漂う、まるであたしはサカナだ。
とてつもなく哀しい何かが湧き上がって、泣こうとしたけど泣けなかった。
涙を流す気管が、あたしにはないからだ。
第一、何が哀しいのかもわからなかった。あたしには記憶というものもない。全て、デリートされてしまったから。
大きく息を吸い込んで、あたしはざぶんと海の中に潜った。
するするとデータの羅列が肌をすり抜けていくけれども、何も感じたりはしない。
あたしには感覚がないし、データは物質ではない。
底は、酷くがらんとした空間だった。
その中に、木で出来た小さな宝箱がぽつんと置いてあった。
その箱の蓋を開けると、小さな空気の粒がぷわぷわと海面へ浮き上がっていく。
中に入っていたのは、小さな熊のぬいぐるみだった。
あたしはそれを手に取ると、目を閉じてぎゅっと抱きしめる。
あったかい、と思った。
神経のないあたしにとってそれは単なる思い込みなのかもしれないけれど、それは確かに暖かかった。
急に、海底の泥がもくもくと浮き上がる。あたしは驚いて目をきょろきょろさせた。
巻き上がる灰色が暗い海を包み込み、視界は遮られる。
驚いた拍子にぬいぐるみを落としてしまった。慌てて探そうとしたけれど、何も見えなかった。
足元から湧き上がった青白い光に包まれて、あたしは目を閉じた。
次の瞬間、あたしは見知らぬ部屋に立っていた。
六畳ほどの小さな部屋。脂ですすけた壁。あちこちに散らかった大量の紙。それらに埋もれるように佇むパソコンが青白い光を放っている。初めて見るはずなのに、何故か懐かしかった。
そこであたしは考える。
懐かしい……?懐かしいって、なんだろう。あたしは何も知らないはずなのに。
あたしは自分の身体を見た。
ヒトの、それも女性の形をしていた。
けれどもヒトとは決定的に違うそれが、あたしが人間ではないことを証明していた。
背中にささった数本の細いコードがパソコンに向かって延びていた。
あたしは次に窓を見た。汚れたカーテンの向こうから、血のように真っ赤な光が室内に差し込んでいた。
「おかえり、エンジュ」
その声は、あたしがずっと
待ち焦がれていたぬくもりだった。